【小説】はじめてのキャンディ
久しぶりのまともな休日。目を覚ますと、外はまだ暗い。狭い部屋に脱ぎ散らかした服の山。食卓に残されたいつかの食器たち。乱雑に転がった、いるものいらないもの。
1DKの古いマンションだが、リノベーションのおかげで、不便は感じない。
なぜだか、疲れたときほど、はやくに目が覚めてしまう。
時計を見ると、まだ夜更けだ。
帰ってきて、風呂にも入らず、眠りに落ちたらしい。昨日のシャツのまま横になった重いからだを起こし、足の踏み場のない床をふらつきながら洗面所へ向かう。顔を洗い、顔をあげると、そこにはみっともない顔した男がいた。
思わず苦笑すると、目の前の男も真似して笑う。
今の仕事につき、はや数年。慣れれば鳴れるほどに増していく仕事量は、いつの間にか許容量を超えていた。
毎日、終電まで残業して、家には寝に帰るだけ。まあ、家には帰りを待つ人もいないし、好きでやっている仕事だ、ムリヤリ働かされているわけでもなく、むしろ、じぶんから望んで仕事を増やしている。
この前の現場。あるイベントの担当になり、当日も現場で足を運んだ。若手のバンドがその腕を競い合うライブだった。夢を追い、がむしゃらに演奏する彼らと、声援を送り、彼らの成功を祈るファン。
僕は、その甘酸っぱい青春の一幕を、ほろ苦い気持ちで見つめていた。
高校生のとき。同級生と組んだバンドでベースを担当していた。はじめは憧れのバンドのコピーをしていたが、徐々にオリジナルの曲をつくり、大学に進学する頃には、それなりに人気をなり、それなりにファンもついていた。
大学在学中に、全国を行脚し、ライブを重ね、CDをつくり、ライブハウスでワンマンを開けば、満員御礼。順風満帆。
メンバーもプロへの道を意識しだした。
そんな大学4年の春。ボーカルが突如、脱退すると言い出した。
就職が内定した。プロを目指したいみんなに迷惑をかけられない。そういう彼を説得する術を、誰も持ち合わせてはいなかった。
そのままバンドは解散。ギターは上京して、今はソロのギタリストとして、バンドのサポートやスタジオミュージシャンとしてなんとかやっているらしい。ドラムは、講師として働きつつ、新たなバンドで音楽を続けている。
僕は。楽器を置いた。そのまま就職して、なんどか転職を繰り返し、今。やりがいのある仕事に就け、満足はしていた。
ただ、大学の頃から付き合っていた彼女とは、数年前に別れた。
「好きだったよ、音楽してるあなた」
別れ際、彼女に言われた言葉。
音楽を諦めたとき、否定も肯定もせず、ただ僕の決断を受け入れてくれた彼女から告げられたその言葉が、いまでもたまに胸を反芻する。
喉の渇きを覚え、蛇口をひねり、コップ一杯に水を汲む。それを一気に飲み干す。体の中を水が通り抜けるのがわかる。冷えた感触が胃までたどり着くが、それもすぐに消えていった。
バンドが解散したときも、彼女と別れたときも、僕は引き留めることはせず、ただただ受け入れた。
音楽を愛していたし、彼女を愛していた。けれど、次々に溢れでる想いは、喉元を越え、言葉になることなく、飲み込まれていった。
ピリッ、と胸の奥に痛みが走り、手を当てると、固い感触がする。昨日、道端で配っていた試供品のキャンディだった。
幼い頃、キャンディを口に含むとすぐに飲み込んでしまい、母によく怒られた。それ以来、あまり口にすることはなくなって、大人になってからは一度も食べていない。
いや。一度、付き合いたての頃、彼女がくれたキャンディを、断れず口にしたことがあった。あとでその話をすると、なんで言わないの、と小突かれた。
あのときのキャンディの味は、甘くて、酸っぱくて。ほっぺたの内側が刺激され、唾液が溢れてきたのを覚えている。
彼女は甘酸っぱいキャンディを好んで食べていた。渇きを潤すために舐めるのだ、と彼女は言っていたが、僕にしてみれば、余計に喉が渇く気がしたが、あの彼女が言う、潤いの意味がわかった気がする。
ポケットからキャンディを取り出す。珈琲味のキャンディだった。
袋を開け、口の中に放り込む。
ほろ苦さが口いっぱいに広がる。
少し舐めて、飲み込んだ。
部屋に戻り、埃をかぶったCDプレーヤーを何年かぶりに起動させる。ガチャガチャと大きな音を立てて目を覚まし、少しして音を奏ではじめる。
流れたのは、彼女がよく聞いていた歌。プレーヤーに入れたまま忘れられていたらしい。
飲み込んだキャンディが胃の中で疼き、飛び出したそうにする。
僕はいつも、飲み込まなくていいものを飲み込んでしまう。
そして、忘れたふりして、凝りもせず繰り返して。
気づけば、外は茜色に染まっていた。明けるのか、暮れたのか、わからないほど、聞き入っていた。なんどもなんども聞き返していた。
彼女が好きだった歌。
音に合わせて、なんどもなんども指が空を切っていた。
あー。
思わず、声が漏れ、天井を仰ぐ。
好きだわ。
喉元を過ぎる。
とうに溶けたはずのキャンディが、まだ残っているような気がした。それは、苦くて、甘くて、酸っぱくて。
はじめての味だった。