【小説】灯台もと暮らし
これは、ある灯台守の男とその娘の話である。
ある岬には古い灯台があった。
その昔、灯台といえば、海を渡るものたち、漁を生業とするものたちの“みちしるべ”として、なくてはならない存在であった。
だがそれも過去のこと。衛星通信による位置測定の技術が発達し、また、それ自体の老朽化も進み、役目を終えるものがひとつ増え、ふたつ増え、もはや風前の灯、この灯台を残すのみとなっていた。
男の一家は代々、灯台守として、この場所に住みつき、灯台を管理してきた。娘も当たり前のそうにその環境に慣れ親しみ、大きくなっていった。
ある日、娘は尋ねる。
「なんでまだ灯台を守ってるの?みんな言ってるよ、もう灯台なんていらなんだって」
娘は目に薄っすらと涙を浮かべている。学校で誰かに何かを言われたのだろうか。悔しそうに、明確な反論を期待するかのように、男をじっと見つめている。
男は苦い顔をして「そうか」と返す事しかできなかった。
なぜまだ灯台を守るのか。秘術が発達したといえど、まだ灯台を頼りに航海をするものがいる。一人でも灯台を必要とするならば、灯台を守り続ける意味はある。きっとこれがもっともらしい回答なのであろう。
だが、男はそう言葉にはできなかった。確かな理由など持ち合わせていなかったのだ。父が、祖父が、代々続けてきた役割を、あたりまえのように受け継ぎ、疑うことなく営んできた。
灯台はもう必要ない。だから、廃止されてきたのだろう。ではなぜ、まだ灯台を守っているのか。使命感なのか、それとも、受け継いだものをじぶんの代で終わらせたくない、というような浅はかな誇りのためか。生まれてこの方、灯台守の仕事しか知らないじぶんが今さら新しいことなどできるはずがない、という不安感からか。どれもそれらしく、どれも断言できそうにない。
“みんな言ってる”と娘は言った。
“みんな”とは誰であろう。娘の同級生か。その親か。顔の知らない“みんな”が、じぶんより明確な答えを持っているのだろうか。それならば教えてほしい。
男は娘に「みんなって誰だ?」と尋ねた。
娘は驚きの表情を浮かべたあと、困惑したようすで目をそらす。問い詰められたことを、責められているのだと思ったのだろう、男はすかさず「違うんだ」と訂正しようとするが、足早に男の元から去ってしまう。
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駅を降りると、タクシーに乗り込む。ここから目的地まで一本道で15分ほど。どんより曇りがかった空。一雨降りそうだ。運転手に目的地を告げる。行き先は、ある灯台だ。
私はそこで生まれ、その場所で育った。父は最後の灯台守だった。
そこでの生活は、今思えば苦労はあったが、それがあたりまえの環境で過ごしていたので、不便に思うことはなかった。物心つく前から、祖父や父の仕事を見て育ってきたためか、幼心に、将来、私も灯台守になるのだ、なんて思ったりもした。父と母には私しか子どもがいない。じぶんが継ぐのが当然だと、そう思っていた。
あるとき、学校でからかわれた。父の仕事が古くさく、意味のないことだと。ショックを受けた私は父に尋ねた。しかし、父はにべもなく生返事をするだけだった。しかし、確かに一瞬、辛そうな表情を浮かべた。
父を傷つけてしまった。そう思い、自身を責めたことを覚えている。私は考えた。なんどもなんども。しかし、とうとう答えは見つからなかった。
ある夕食の場で、私は父に「学校を卒業したら、灯台守になる」と告げた。
「ムリに継ぐ必要なんてない。お前はお前のしたいことをしなさい」
父は穏やかな表情でそう言葉を返してきた。私はまたショックを受けた。ムリなんてしていない。ずっと灯台守になるつもりでいたのだ。したいことなんてほかに、したいこと、したいこと。灯台守は私のしたいことなのだろうか。
父は食事を終えると、仕事に戻っていった。
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日が傾く前に、あかりを灯す。日が登れば、あかりを消す。異常がないか点検をし、霧が立ち込めれば霧笛を鳴らし、船舶から無線があれば、気象情報を連絡する。それが灯台守の仕事である。
灯台なんてあかりを灯していないときは暇を持て余しているんだろう、楽な仕事だ、なんて揶揄する声がある。そのくせ不自由で、よくその寂しさに耐えられるものだ、そんなことを言う人もいる。
男自身も子どもの頃は、学校から距離があり、休みの日でも近くの野っぱらを駆けまわるか、家に積まれた本を読み耽るかで、業を煮やして、旅行などをねだったこともある。
娘が同じようにごねて、言ってきた。
「ねえねえ、私、旅行に行ってみたい。一日でいいから。いつも大丈夫なんだからさ、一日ぐらい大丈夫だよ」
これまたあのときのじぶんと同じ言葉を投げかけてきたとき、父の言葉を借りてこう言った。「なにも起こらないのがあたりまえであり、なにも起こさないこともあたりまえなんだ。小さなミス一つで人の命にかかわることもある。疎かにした一日でもし、事故が起きたら、こんなことになるなんて思いもよらなかった、なんて言い訳はきかない。だから、同じことを同じように一日も欠かすことなくくりかえすんだ」
それから娘はわがままを言うことはなくなった。男は悔いた。あのときに感じた外への、自由への羨望を、いつしか忘れ、おなじ感情を抱いた娘に不自由を強いたのだ。それは灯台守としては正しくとも、父として正しいのであろうか。
だから、娘が灯台守を継ぐと言ってきたとき、男は継ぐ必要はない、と告げた。
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灯台の最寄りに着くと、先ほどのまでの曇天が嘘のように、空は青々と晴れわたっていた。
タクシーを降り、徒歩で灯台に近寄っていく。
今はもう、封鎖され、立ち入ることができなくなった灯台は、それでも、観光地として、少なからず人が足を運ぶ場所となっている。
父は、廃止されるその日まで、この場所で灯台守として働き、役目を果たしたのちは、家族で街に移り住み、特別なことなどない平凡な生涯を過ごした。晩年、痴呆を患った彼は、灯台守としての使命をまっとうしようとしていた。
父にとっては、灯台守ことが仕事であり、人生だったのだろう。
灯台の下までたどり着いた私は、父の言葉を思い出していた。
「なにも起こらないのがあたりまえであり、なにも起こさないこともあたりまえなんだ」
波風立つ岬の先端で、波風立てることなくその使命を果たした男。
「同じことを同じように一日も欠かすことなくくりかえすんだ」
同じことなどない波風や気候に立ち向かい、同じように維持し続けてきた男。
「さすが親子だな」と無意識につぶやく。私も当たり前のように生きてるよ、お父さん。
沈みかけた日が、いつになく静かな水面に移り、まっすぐ光の道をつくり、灯台に差し込む。それはまるで、灯台から照らされたみちしるべのようだった。