【小説】僕はそれを口にする
桜が散った新年度。入学式やら新生活の慌ただしい空気が落ち着き、ゴールデンウィークを迎えるまでの週末の土曜日、僕は山登りにきた。
大きな川沿いに位置するこの山、標高は313メートルで、登り方はいくつかはあるが短いルートだと4〜50分ほどで登りきることができるので、初心者にもやさしい。
毎年、正月には初日の出を望みに多くの人が山頂に集うが、それ以外は比較的、静かな山だ。近年の登山ブームもあり、昔より人は多くなった。
車を降り、登山口へ向かうと、紫色の小さな花がたくさん咲いている。案内看板には“カタクリ群生地”とある。
そこで50歳くらいだろうか、少し強面の男性に声を掛けられる。
「きれいですね」
「ええ、はい」急なことで、うまく答えられなかった。
「ごめんなさい、突然」
「いえ」と、慌てて笑ってみせる。日頃の癖だろうか。今日はオフモードのはずだったのに、急にスイッチが入ってしまった。
ベージュのサファリハットに水色のウインドブレーカー、黒のトレッキングパンツに水色のトレッキングシューズ、そして、大きなザックを背負っている。
どれもよく使われていて、山登りに慣れていそうな雰囲気を醸しだしている。
「カタクリっていうと“片栗粉”を思い浮かべませんか?」
「そう、ですね」
「でも、片栗粉って、ジャガイモのでん粉なんですよ」
「そうなんですか」
「昔はこのカタクリの球根からつくっていたそうなんです。だから、片栗粉。いろんなところで取れたらしいんですが、乱獲されて、激減してしまったみたいでね」
「へえ」
「ちなみに、カタクリって、破片の片に、芋栗南瓜の栗って書くでしょう。ほら、葉っぱを見ると、それで栗の子葉に似てるらしくて、それで片栗って書くんです」
「そうなんですね」
「諸説あるんですけどね」
「なるほど」
「ああ、すみません、喋りすぎました。それでは」
男は会釈をして、登山口へ向かっていく。
気を取り直して、少しのあいだ、カタクリの写真を撮ることにした。
登山中にカタクリの人に追いついてしまうのはなんとなく気まずい。来週には満開になるだろうか。そうしたら、人出は増えるのだろうか。カタクリに思いを馳せながら、しばらく待ったあと、僕は登山口へ向かう。
山登りを始めたのは社会人になってからだ。今では月に一度はどこかの山に登るようになった。
就職してからずっと、気を遣って、ムリに笑って、頭を下げてきた、その繰り返しがいつしか限界を迎え、あるとき、仕事を休職した。
そもそも人付き合いに向いていなかったのだ。それなのに、なぜ営業職を選んでしまったのだろう。
医者には“なにか趣味を見つけるとよい”と言われたが、趣味らしい趣味はなく、それでまた頭を悩ませてしまった。
地元を離れ、今の職場に就職するため、この街に引っ越してきたから、誰かとどこかにでかける、ということもない。まあ、人といると疲れてしまうので、もともと一人でいることのほうが多いのだけれど。
そのときたまたま、テレビの特集で登山がブームだと取り上げられていた。
なにがそうさせたのかじぶんでもよくわからないけど、次の日、この山に来ていた。登りやすそうなところを探してみれば、案外、近くにあった。
毎日の通勤途中、この山のことを見ていたはずなのだが、まさか登れるとは思っていなかったし、こうして何度も登ることになるとは思わなかった。
初心者の僕は、スニーカーにジーンズ、Tシャツにパーカーで、ペットボトルの水を片手に登った。季節はゴールデンウィークを過ぎた、五月病が流行り始める初夏だった。
その日は日差しが強く、最高気温も高めで、車で駐車場についたときには汗が滲むほどだったのだが、いざ山に登りはじめると、すぐに肌寒さを感じた。
登山道は木陰で、日が届くところは少ない。
急いで登ろうとするが、次第に足に疲れがたまっていき、ペースは落ちていく。
なんで山なんて登ってるんだろう。
もし滑落して、誰にも気付かれなかったら。
どうせ仕事は休んでいるし、誰にも迷惑はかけないか。
レンタルビデオ返してないな、どうしよう。
はじめはいろんなことが頭を巡っていたのだが、足が重くなるほど、呼吸が煩くなるほど、無心になって、気付けば、途中の休憩舎までたどり着いていた。
そこでようやく、喉の渇きを感じ、水を掻き込む。冷たい水が全身に行き渡るのがわかる。
それが心地よく、それまでの疲労がなかったかのように、足どり軽く歩みを再開した。
そのまま、山頂の展望台にたどり着いた。
空は青く広がっていて、視界を遮るものはない。
見下ろした景色は思ったものと違って、街は山と川に囲まれて、平野には建物が窮屈に並んでいる。そして、ちっぽけな街に住むちっぽけなじぶんを思うと、不思議と心が晴れていった。
それからいろんな山を訪れ、仕事に復帰してからも、登り続けている。
山頂に到着し、展望台へ足を進めていると、石に腰掛けるカタクリの人を見かける。あちらもこちらに気付き、会釈をする。彼はカップラーメンを啜っていた。
―ぐぅぅ―
体が正直に音を鳴らす。
「あ、食べますか?もう一個あるんで」
男は未開封のそれを取り出す。
「いや、でも、」と僕が言い淀んでいると、男はハッとした表情をみせ、カップラーメンのビニールを剥がしながら、弁明を始める。
「あ、火は使ってませんよ、ここは火気厳禁ですからね。これです、これ」
男はモバイルバッテリーのつながった電気ケトルを指さし、そのまま、それを手に取り、カップにお湯を注ぎ、そして、こちらに差しだしてくる。
「お湯、注いじゃったから、はい、どうぞ」
僕は観念して受け取り、隣りの石に腰をおろす。
「私ね、ラーメン屋やってるんですけどね、これが一番好きかもしれません」
ハッハッハ、と笑いをこぼし、ラーメンを豪快に啜る。
確かに、強面なその顔はラーメン屋だと言われれば納得する。でも、なんだか、妙に腰が低くて戸惑う。いっそ、怖くあってほしい。
「うちはね、親がラーメン屋で、それを継いだんですけどね、まだまだ親父の味は越えられませんわ。まあまだ親父も、現役で店立ってるんですけど」
「今日は、お休みなんですか?」
「親父が仕込みしてますわ。母親も店に立ってるし、まだまだ二人とも元気で。私は土曜日の昼間は休みもらってるんで、こうして山でラーメンです」
「お元気ですね」
「そうなんですよ、休めって言ったって“老人扱いするな”って怒りだすんです。昔の人ってのは、なんであんなに元気なんですかね」
ケラケラと笑い、残りの汁をゴクゴクと飲み切ると、男は立ち上がり、片づけをはじめる。
「じゃあ、私はこれで。あんまり父親働かすと、過労死してしまうかもしれませんからね、ハッハッハ。これ、ゴミ袋にどうぞ」
こちらのカップ麺が出来上がる前に持ち主が去っていく。ごちそうさまも言わせてくれないなんて、せっかちなラーメン屋さんだ。
あと、箸、貰ってないんだけど。爪が甘いですよ。貰っておいて、こんなこと言うのもなんだけど。
僕はザックを開け、昼食用に用意していた出来合いの弁当から割り箸を取り出す。僕が箸を持っていそうな顔に見えたのだろうか。
ウルトラマンが怪獣をやっつけて空へ帰る頃合いに、僕は蓋を開け、汁を啜る。
体中に熱が伝わる。
うまい。
心地のよい風を受けながら、僕はそれを口にする。
それから何度か、この山を登る度に顔を合わせた。最初に再会したときに、ごちそうさまはちゃんと伝えられた。箸のことは黙っておいた。
「登山はね、嫁が好きで、よく一緒に登ってたんですよ」
「へえ」
「嫁はうちのラーメンが好きだったらしく、はじめは客だったんですよ」
「そうなんですか」
「いつか、うちのラーメンも食べてもらいたいな」
「そうですね」
会っても軽く話して、それぞれの時間を過ごす、そんな関係もちょうどよかった。
山が赤や黄色に彩りをはじめた頃、仕事終わりに彼の店に寄ってみた。
そこは、あの山から橋を渡り、川を越えて少し車を走らせた先にあった。黄色い看板の目立つこじんまりとした、懐かしさを感じさせるような佇まいの店。
車を止め、店内へ。
「いらっしゃいませ」
活気の良い挨拶に迎えられる。
男は僕に気付き、いつものように会釈をする。
「どうも、来てくれたんですね。ありがとうございます。どうぞ、お好きな席に」
夕食時で、店内はそれなりに埋まっている。僕はカウンターに腰掛け、支那そばを注文する。
母親だろうか、白髪のおばあさんが水を出してくれる。厨房では調理服姿のおじいさんが鍋を振り、チャーハンをつくっている。カタクリの人も手際よく調理を進め、あっという間に目の前に器が置かれる。
「はい、お待ち」
煮卵、メンマ、チャーシュー、ネギ、ノリ、醤油のスープに中細麺。シンプルだけど、いいにおい。
「いただきます」
レンゲを取り、スープを啜る。見た目よりあっさりしている。でも、コクはあって、そして、なんだか優しさを感じる。人柄が滲みでているのかもしれない。
箸を取り、麺を啜る。
うん、うまい。
そのまま黙々と食べ進め、完食。会計を済ませ、調理中のカタクリさんに会釈をして店を出る。
それから、たまに通うようになり、季節は巡り、世間が夏休みを待ちわびる頃、昼食を食べに店を訪れた。
昼時だが、客はまばら。
その日、カタクリさんはいなかった。この日は土曜日。そういえば、毎週土曜日の昼は山登りをしているのか。
厨房にいるお父さんに注文を伝え、ラーメンを待つ。
「いつもありがとうねえ」
背中から声を掛けられた。
「いえ」
お母さんはいつものように水を差しだす。でも、いつもと違って語りだす。
「今月でね、13年になるの」
カタクリさんの奥さんは、その日、仕事帰りに車を走らせていた。集中豪雨で川が増水し、氾濫した水が、たまたま通っていた線路のアンバーパスになだれ込み、車ごと彼女を流した。そして、行方不明になり、今も見つかっていない。
カタクリさんはその日からずっと捜索を続けている。
「二人とも山登りが好きだったからねえ。辛くなることわかっていても、登ってしまうのねえ」
事故現場の近くに聳えるあの山に登り、街を見下ろしている。
今日も今頃、山頂にいる。
「これからも仲良くしてやってね」
お母さんが話を終え、お父さんが支那そばを差しだし、僕はそれを口にする。
うまい。でも、カタクリさんのも決して引けを取らない。じぶんでは父親を越えられない、なんて言ってたけど。
きっと僕は彼に何もしてあげられない。何かしてもらおうとも思ってないだろうし、これからもたまに山で顔を合わせて、愛想のない返事をし、たまに店を訪れて、麺を啜る。
でも、次に彼の支那そばを食べたときに、僕は口にしようと思う。
「おいしいです」と。