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法善寺串の坊の思い出

 84年のある夏の日、大阪ミナミは法善寺の串カツの老舗「串の坊」本店。

 カウンター席でボクの隣に座ったサンドラは、芝海老に紫蘇の葉を巻いてさっと揚げた、そのひと串をゆっくりと食べ終ると、いつものようにとてもはにかみながら、蚊の鳴くような小さな声で、それでもいくらかは嬉々として、「トテモオイシイデス!」と言った。

 サンドラは日系3世の米国人留学生だ。可憐な長い黒髪で、少しだけだけどアグネス・チャンに似ていた。

 '2人'の「引率者」は体育会自動車部OG で少し男勝りな大学職員のM子さん。

大人しい性格のせいでやたら賑やかな米国人学生グループの中でひとりぼっちになりがちなサンドラを心配し、また、女子に関して奥手でどうしようもないボクにやや苛立ちながら、「ミヤタッキー(当時のボクの呼び名)、私がご馳走してあげるから、あなたたち付き合っちゃいなさいよ!」と言って、半ば無理矢理、2人を西宮からわざわざ大阪ミナミまで連れてきたのだった。

 サンドラは姓が日本名で、見た目もどうみても日本人だが、日本語はほとんどできない。家庭の中の食事や習慣も、あくまでも米国人として育てられたらしい。

大人しいはにかみ屋の性格はあくまでも彼女自身の個性だと自分では思っていた。日本に留学して初めて自分のルーツに繋がるアイデンティティを確認できたような気がするの、とボクに言った。

 サンドラは少食で串カツは10本も口にしなかった。女性が二人いて、お酒もビールを少し、という具合なもんだから、あっという間に串の坊での言葉多くはなくも楽しい会話の時間は過ぎていった。

ボク自身もどちらかと言うと口下手なのに、何故だかやたらにその時間が短く感じられ、口惜しかった。最後に、お店の人が勧める旬のさやいんげんを3人であっさり頂いて〆めた。

 ガラリ、とずっしり重い引き戸を開けて蒸しかえるような外に出ると、84年の蝉時雨がボクらの頭の上で笑っていた。

 それから後、結局ボクとサンドラが付き合うこともなく、数年後、サンドラは米国に帰っていった。今はどうしているか、わからない。M子さんはしばらくして米国留学し、NYの国連本部で今もバリバリ働いている。

 駅ビルで串の坊の看板がふと目に留まり、通勤電車の中でそんなとりとめのない昔話を思い出していた。さて、串の坊に無性に行きたくなった。銀座か新宿の店に出かけようか?

#法善寺横丁 #串の坊

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