2015往く夏の安保法案可決に思う
安保法案が可決・成立し、この夏が本当に終わった。
2015年の夏はこの先歴史でどのように評価、記録されるのだろう?ぼくには到底わからない。
布団の中で早朝流れるニュースの声を聞きながら、何故だか東アジアの風景が脳裏に立ち上った。
遥かいにしえの頃。
そこに流れる時間と空気は驚くほどおおらかだ。
国境もクニと言う概念も人々は未だ意識さえしていない。
始めに好奇心があり、
外に行ってみようという者がいて、
それに恐々と付き従う者たちがあり、
人々は船に乗って海峡を渡り、
命からがらたどり着いた土地で、
異なる民との遭遇があり、
対峙と緊張があり、
溶解と融和があり、
笑いと喧嘩と和解と涙を幾度も繰り返し、
やがて恋が生まれ、
言葉がつながり、
移住があり、さらなる往来があり、
混血があり、
交易と交流が誰に管理されることもなく
おおらかな時間の中で長い長い間繰り返された。
21世紀にはインターネットがありSNSがあって、誰しもが軽々と国境を超え海峡を跨ぎ、リアルタイムで隣国とも繋がることができるようになった。
一方で、いずれの国でも隣国に対するネガティブな情報や罵詈雑言が増幅され天文学的な量でネット上に氾濫している。
そして相も変わらず20世紀的なステロタイプのレッテル貼りによる思考停止が横行する。
韓国人が全員反日であろうはずがない。中国人が全員爆買いにしか興味がないはずがない。
安保法案の成立した今。
今こそ、虚心坦懐になりたいと思う。
メディアやネット上に溢れる情報には躍らされることなく、刷り込み済みの知識や偏見は一度一切忘れ去って、古代の人々のように自分自身の目と耳と皮膚感覚だけに頼って隣国を確かめて見るのはどうだろう。
必ずしも好きになる必要などはない。ただ心を閉ざしてレッテル貼りをすることからは心を解放したい。
人と人とが繋がってお互いを知ろうとする。
ぼくたち民間人にできる最大の戦争抑止力ではないか?
往く夏の置き土産のような朝顔一輪を見ながら、今度は虚心坦懐という言葉が脳裏を駆け巡っていた。
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