幻の都 恭仁京
三香の原久迩の都は荒れにけり大宮人のうつろひぬれば 万葉集 田辺福麻呂歌集
幻の都、恭仁京(くにきょう)跡を訪れた。
故郷伊賀の國からひと山越えた京都府の南端南山城の木津川右岸に位置する山里だ。
今は何もない。ただ見渡す限りの休耕田にコスモス畑がいっぱいに広がっている。
大極殿と七重塔の礎石が残るらしいが恭仁宮の史跡を示す表示板がなければ誰もそれとは気付かない。
千三百年以上前ここに確かに日本の都があった。
天平12年(740)10月、聖武天皇は伊賀、伊勢、美濃、近江などを行幸と言うか恐らくは彷徨して、同年末に恭仁宮に入り遷都を宣言した。
しかし2年後聖武天皇はこれまた伊賀の國からひと山越えた近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を建設。これもまた紫香楽宮としてしばしば行幸を繰り返したという。
さらに2年後には難波宮に遷都。翌年745年5月難波京から平城京へ戻すという目まぐるしい遷都の中でわずか4年の命の都であった恭仁宮。幻の都と言われる由縁だ。
諸説あるようだが当時大地震、疫病、飢饉、反乱と立て続けに起こった天変地異に心を痛めた聖武天皇の心の乱れの現れであり模索であったのだろう。
それでもこの間聖武天皇は、天平13年(741)に国分寺・国分尼寺建立の詔、天平15年(743)には今で言う奈良の大仏の造立の詔を下し、歴史に言う鎮護国家の完成を推し進めたのだった。
ともあれ、ここが聖武天皇がかつて住まわれていたという内裏の場所で小春日和の柔らかな陽射しの中で揺れているコスモスの中に立ってみる。
何もない。何もないから想像力を膨らませることができる。
恭仁宮の大宮人の生活に思いを馳せ悠久の時を思えば、何だか不思議なほどに平和で幸せな気持ちになった。
いつの間にか50を過ぎた幼馴染みたちと麦畑ならぬコスモス畑の中で男女カップルになり代わり代わりにツーショット写真を撮りあっていた。
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