
『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』感想──マーティン・マクドナー×アキ・カウリスマキな魅力
『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』をフォーラム仙台で見た。公開がもうすぐ終了することもあり、場内は年齢層高めの女性客でにぎわう、俺も予告の時点で「まあまあ面白そうだな」とアンテナには引っかかっていたのだが、スルーしそうなところを、嫁はんアンテナがより強い電波を受信していたので、見に行くこととなった。
『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』とは?
第73回カンヌ国際映画祭に出品されたジョージア映画。原作はョージアの新進女性作家タムタ・メラシュヴィリの小説。ジョージアの小さな村に住み、日用品店を営む48歳の独身女性エテロ。ある日、ブラックベリー摘みの最中に崖から足を踏み外し、死を意識したことをきっかけに、エテロの人生は大きく変わり始める──。
原題は「Shashvi shashvi maq'vali」(Blackbird Blackbird Blackberry)であり、「ブラックバード」が排除され、「私は私。」が挿入されている。劇場に展示されていた新聞の映画評にも表れていたが、フェミニズム観点からの自尊心とか自立にスポットライトを当ててより分かりやすく、コマーシャルされている。
だからエテロは男に乗っかって48歳で破瓜を迎えるし、無表情な中に性愛への欲を抱え自慰に励むし、ムルマンの俺についてトルコに来ないかという誘いを断るし、やたらと意地悪で旧弊的な考えにとらわれた友達たちに本心をぶつける。
とはいえ、フェミニズム的な観点でいえば、そりゃ生き方の自己決定権は女性にあった方が良いだろうし、失敬なやつらには怒りを伝えるべきだし、ムルマンは不倫してるものの本当にナイスガイだし(なにせ手帳にエテロをほめたたえる詩を書きつけているのだ)で、あまり目新しい観点や主張がない。
最終的に(ネタバレ)するのも、こういう話にオチを付けるとすればそのあたりが最初に浮かぶ飛躍だよなーと思う。実際、そこから先をどうするのかという問題が生じ、ここから本当の(解決の見えない)物語が始まるわけだが、そこは描いてはくれないのだ。
だから、続編『私は私。、ブラックベリー、私は私。』に期待したいところだが、『「私は私。」だが、「私」だけでなくなった時、私はどうするのか?』それはあまり望めないだろうな。こういうアート系の作品では。
マーティン・マクドナー×アキ・カウリスマキな魅力
映画作品として語り的に骨太な腕とうまさがあることも、本作が高く評価される要因だろう。
個人的には、マーティン・マクドナーのどこに連れていかれるかわからないが妙にどっしりとしたストーリーテリングとアキ・カウリスマキの素朴なキャラクターの描き方が融合したような印象を覚えた。
マーティン・マクドナーとは?
イギリス出身の映画監督、脚本家、劇作家。『スリー・ビルボード』(2017年)ではアカデミー賞 作品賞ノミネート、主演女優賞・助演男優賞(サム・ロックウェル)受賞。独特のユーモアと暴力的な表現、劇作家ならではの語り口で知られる。
アキ・カウリスマキとは?
フィンランドの映画監督、脚本家、プロデューサー。『過去のない男』(2002年)でカンヌ国際映画祭 グランプリ受賞。「敗者三部作」や「労働者三部作」など、ミニマルでユーモラスながらも社会的テーマを扱う作風で知られる。
ブス、というよりもアンセル・エルゴートがおばさんになったみたいな顔だなと思っていたのだが、そのエリゼがどんどんエロチックに見えてくるのは見事な腕である。
裸でソファに寝転んで携帯をいじる様子を頭の側から捉えたシーンなどがお気にいり。
部屋の内装やカラー設計もバシッときまっている。
というわけで非常に魅力的なひとつの映画作品ではあったのだが、もう一つ先の、物議をかもすようなステージに踏み込めるのは、続編だろう。