映画『きみの色』感想──色のない僕たちにとっての川向うのきれいな世界
TOHOシネマズにて、一人で視聴。レイトショー・客入りはまばら。初動で苦戦しているとは耳にしていた。
山田尚子監督や京アニと自分の距離感は、かなり開いている。深夜に見るものがニコニコ動画・アニメだった人と深夜のお笑い番組や深夜ラジオだった人がいる。俺は後者だったのだ。
(みんながけいおん!を見ているとき俺は美女裁判を見ていた)
朝日放送テレビ|美女裁判~恋愛裁判員制度~
そういえば、声優のラジオをその人の代表作をまるで見たことがないのに聞いたりもしていた(小野坂昌也の『集まれ昌鹿野編集部』とか、ラジオ関西のアニメ枠とか)。
そういう意味ではアニメと深夜ラジオ、お笑いなどの文化もゆるく連動しているのかもしれないが(ハライチのターンなどは岩井が意識的にアニメ好きとしての文化を持ち込んだ)、それでも、うっすらと川は流れている。
川の向こう側の世界
そしてその川の向こう側に『きみの色』はあったなというのが今回の感想である。
そもそも悩みを抱える主人公たちが文化祭でバンドを組んでなにがしかのきずなや成長を得る、という組み立て自体に「それ100回見たやつやん」と警戒心がわく。
絶対にプロデューサー川村元気の引いたラインにのってつくられただろうと怪しむ。
もちろんそのオーダーに対して唯々諾々とこれまでの焼き直しのような作品がつくられたわけではない。
たとえば、以下のような部分に本作の個性がある。
・主人公自身に悩みはない
上記コラムではその悩みの繊細さについて論じられている。
確かにバレエのシーンがおかれた意味を考えれば藤津氏の言う通り、
丁寧な演出に俺がついていけなかっただけなのだろう。
とはいえ、その丁寧さこそがnot for meである、ともまた思いを堅くした。
・楽曲はたとえば、LAUSBUB(北海道の軽音楽部女子高生(当時)によるニューウェーブポップバンド。SNSで2021年にバズった)みたいなセンス系
作曲は牛尾憲輔氏(まりん以後の電気グルーヴのサポートかつ、アニメ劇伴の大御所)。
ギターは相対性理論の永井聖一氏。
最近相対性理論の再評価えぐい。
加えて、クラスを見返すでもなく大きな歓声を浴びるでもない等身大の達成。
きれいな世界の選民思想
主人公トツ子は特定の人間から色を感じる共感覚(シナスタジア)で、バンドメンバーは「青」くきれいに輝く「きみ」ちゃんと、「緑」色の攻撃性皆無性欲皆無男子の「ルイ」くん。
トツ子はきみちゃんに惹かれて彼女が学校を退学してもなお追い、修学旅行を仮病で休んで退学後の彼女と寮で逢瀬し、「黄色」いシスターひよこはそれを応援する。
そもそもの友人メンバー(寮の部屋が同じ3名)も存在するのだが、彼女たちの色は見えない。トツ子は彼女らとの修学旅行をパスして(バス酔いという理由はあるものの)きみちゃんとの関係を優先する。
ここにあるキョーレツな選民思想(やさしいもの、きれいなもの、特別なものしか鮮やかに映らない)!
それが美しいものだけを描くことができるアニメという媒体に合致しており、だからこそ山田監督や吉田脚本はアニメ界のトップクリエイターなのだろうが、やっぱり苦汁や悪意が描かれていない川の向こうの世界は、ドブ川側からすればどうにもリアリティが欠如したものにしか感じられないなあ、と思った。
きみちゃんのおばあちゃんの若々しすぎる容姿。
それに対して醜く描かれる二人を叱責する学長(唯一ドブ川が本作で描かれるとすればここなのだが、特に解決されずオミットされてしまう)。
とはいえ、それができないというわけではなく(響け!ユーフォニウム3期12話の評判などを耳にする限り)、夏休み大長編作品(ご丁寧にタイトルに「きみ」入り!)の本作では切り捨てることに踏み切ったのだろう。
どちらかといえば、not for meだった。
色のない僕たちは
ここまで書いた後で、以下の動画を見た。
有料部分もあるので詳しくは語れないが、大勢としては、牛尾憲介氏の映画であることが語られており、また「色 = その人の本質」的な解釈がなされていた(ただし、色の解釈の一貫性に問題があることもまた指摘されている)。
その論を踏まえて自分の思想を見返すと、「色 = 才能・輝き」というのはあまりに僻みっぽい解釈ではないかと少し反省した。
たとえば、人は好きな相手・尊敬する相手のオーラが見えるという。推しのアイドルは輝いて見えるし、大好きなキャラは自分を強くしてくれる。
(見てはいないが、2024年話題になったアイドルをテーマにしたアニメ映画(原作は小説)『トラペジウム』にて「はじめてアイドルを見たとき思ったの。 人間って光るんだって。」というセリフが登場していたではないか)
その輝きが生み出す暗がりも描くことで『トラペジウム』は話題を呼んでいたが、
本作ではあくまで音楽での成功や承認欲求などのそれこそ「悪意」はオミットし、明らかに才能があるメンバーによるほんの少し自分の殻を描く達成を描くために2時間が費やされていた。
その世界に僕たちはいない。
「け、しょせん色のないモブなんだ……」という僻みこそが思い上がりであり、上記planets対談動画で並べて語られていた『リンダリンダリンダ』『けいおん!』のような意味のない一瞬の高ぶりを描くこと、ご飯がおかずの彩ある世界をお届けすることが使命なのだと、山田監督らは考えているのだな。
not for me ではなく nowhere for evil だった。