上沼恵美子がM-1の審査で「好みで点数を付ける」ことは本当に悪いことなのか
※本記事は2019年のM-1グランプリを見る前に書いております。
本日12/22(日)はM-1グランプリ2019の決勝戦です。ぼくはサラリーマンになる前はお笑い芸人をやっていました。M-1は最高で2回戦進出。驚くべき結果の出してなさ。
謙遜とかではなく、ガチで一切売れることはなかったので検索などはお辞めください。
ぼくにとってM-1グランプリと言えば、お笑い芸人時代はエントリーするもののまったく結果を出せず悔しい気持ちで決勝を毎年見て、お笑いを辞めてからは普通の1ファンとして決勝を毎年見ています。完全に年末の風物詩として楽しんでいます。
今年は子供が二人いることもありまして、M-1リアルタイム視聴は難しそうなのでこのタイミングで去年2018年のM-1の話をします。
突然ですがみなさん去年のM-1のことを覚えていますでしょうか。史上最年少で霜降り明星が優勝しましたが、ある炎上騒動があったことが発端となり「M-1の審査」について著名人~無名人まで様々な言及がなされることになりました。
M-1の審査では、上沼さんは「大ファン」という「ミキ」に100点中98点を付け、「ジャルジャル」には「ファンですがネタは嫌い」と88点を付けた。ネットではこの採点に「自分の好みで点数を付けている」という声が相次ぎ、物議を醸している。
このように特に上沼恵美子さんに対する賛否両論な意見があがったのです。
これをうけて上沼恵美子さんは審査員辞めるなんという噂もありましたが、今年のM-1も審査員続投するとのことなので、間違いなく今年もそこにフォーカスがあたるでしょう。
ぼく個人的には上沼恵美子さんの採点は自分の感覚と違うことがあったので、「いやいやそれは違うだろ~」と感じたのは正直なところです。
しかしぼくは上沼恵美子さんが「好みで点数を付けること」で批判されることには違和感があります。なぜそう考えるかをまとめてみます。
M-1はいつも審査に対しては納得いかない人がいる
M-1ファンならご存知かと思いますが審査に関しては毎年少なからず批判的な意見がでます。これはM-1から派生した大会である、R-1グランプリ、キングオブコントでも同じです。
特にキングオブコントの初期は審査=どうやって勝敗を決めるか、というところに重要なコンセプトがあり、それは「芸人同士が一番勝ち負けがわかっている」というものでした。
そのコンセプトのもと「準決勝で敗退した芸人が投票する」という方式で勝敗を決定し、第一回はバッファロー吾郎さんとバナナマンさんが最終決戦にのこりバッファロー吾郎さんが優勝しました。
しかしバッファロー吾郎さんが吉本に所属しており、審査する側の準決勝敗退芸人も吉本に所属している率が圧倒的に高かかったため、偏った投票になっていたんでは?とかなり物議を醸します。
これは「お笑い」というものは誰もが意見しやすい題材であることが大きな要因の一つです。
お笑いのネタというのは、ぼくたち一般人を笑わせることを目的としていることが基本だし、詳しくなくても「面白いか面白くないか」という主観的な判断はできます。
これが「盆栽-1グランプリ」だったらこのようにはならないはずです。
もしテレビで放送したとしても、素人には主観的にもよくわからないものだし。
審査員に「全日本盆栽芸術協会会長」という方がいて、「この作品の枝ぶりがかの名人を彷彿させるなんたらかんたら」という審査をしていたら、そういうもんなんだろうなと思う人がほとんどなはずです。
そもそもM-1決勝の審査には明確な審査基準は渡されていない(多分)
「好き嫌いで点数を付ける」のは不公平だという意見は言い換えれば、「自分の好き嫌いでなくお笑いとして(もしくはM-1として)どうなのかという基準があるべき」ということなのでしょう。
つまり「審査員は自分が面白いと感じていなくてもその基準にのっとって審査すべき」ということを我々は潜在的に求めているということです。
ここで松本人志さんがどのように審査をしているかテレビで言及していた内容をご紹介します。
MCの東野幸治(49)がどのように審査しているのか、高得点の基準はあるのかを尋ねると、松本は「俺は本当に“おもしろいかおもしろくないか”しか見てない」と自身の基準を明かした。
※元記事がわからなくなってしまったのですが、引用させていただきました。
まっちゃんも好き嫌いで点数つけてるね!?
つまりM-1の決勝の審査員は各々の基準で得点をつけて良いというオファーであることが予想されます。
第一回のときは島田紳助が各審査員に「50点以下はつけないでくれ」と打診したという話はありますが、まああってもその程度のルールでしょう。あくまで番組として大会を盛り上げるためのものです。
つまり「好みで点数を付ける」ことは別にルール違反でもなんでもないわけです。「こういう基準があってその基準にのっとって審査をします」とだれも言っていないので、その観点では「好みで点数を付ける」ことがなぜ叩かれるいわれはないわけです。
「いやいやルール違反でなくとも不公平だろ」
このような意見もあるでしょう。
これはおそらくM-1という大会が、結成15年以内(当初は10年以内)であればアマチュアもプロも年齢もキャリアも西も東も関係なく審査する、という「実力主義の全国統一大会」という意味合いが多分にあるが故だと思います。
だからこそ、よく出てくるのがこのような不満です。
・関西の審査員ばかりでは偏るのでは?
・お笑い芸人じゃない人間が審査するのはどうなの?(逆に作家さんとかが審査するほうがという意見もある)
・出演している芸人と親しい人が審査するのは情が入るのでは?
・女性の審査員が少ないのはどうなの?(何故かデーブ・スペクターが言ってた)
どの意見も、とにかく公平さを求める観点です。しかしこれらをすべてクリアするのは難しいでしょう。どんなメンバーが審査員だったとしても、おそらく文句は出るでしょう。
それはなぜか?
お笑いにはそもそもどちらが優れているかという定義が無いからなんです。勝ち負けを決める競技では無いからなんです。
どういうお笑いが優れているのかという定義がないのに、不公平もなにもありません。定義がないのにふさわしい審査員を選べるはずがありません。
仮に「東と西では笑いに対する価値観が違うので、どちらにも評価されることが優れたお笑いなのである」いう定義があれば、「では審査員は関西ばかりにならないようにしよう」と決められるわけです。
定義とルールが先、不公平かどうかはそれ次第なはずです。
しかしM-1は優れているお笑いを定義しなかった
やろうと思えば定義することはできるはずです。
極端にすればフィギュアスケートのように超厳密な定義とルールを策定し、その通りに審査することもできるとは思います。
逆にエンタメ性を排除して、カンヌ国際映画祭などのように審査の詳細は明かさず優勝者を決めることも可能です。(カンヌ国際映画祭のことはよくしらないですが合ってます?)
なんならどちらかに振り切ってしまうほうが楽だと思います。特にブラックボックスにするのは簡単です。今の審査方式はだれかも言っていたように「審査員も審査される」かなり大変なやり方です。
しかしM-1は審査に関して少しづつ調整はしていても、審査の大きな方針は変わっていません。
それはM-1がもつお笑いに対する哲学だと思うのです。
「面白いか面白くないか」ということと必ずしも関係がない厳密なルールを決めるのも違うし、一般人にはわからないようにブラックボックスな審査をすることも違う。審査員にも感情が入ったりする。それも全部ひっくるめてM-1たらしめているんじゃないでしょうか。
形式としては順位を決めるコンテストなので一定の公平感は担保しつつ、「見ている人を楽しませる」というお笑いに関わるすべての人が達成したい目的がブレないことが最優先だと考えて、今の審査方針を保っているんだとぼくは捉えています。
出ている芸人はそういう不公平さもひっくるめて覚悟してM-1に出ています。出順など運の要素があるのも承知の上です。
もちろん去年のとろサーモン久保田さんのように愚痴は言います。愚痴は言うけどわかっています。M-1とはそういう大会なんです。
とにかく好みで審査上等じゃんというのが元お笑い芸人でもあるぼくの意見でございます。
2019年のM-1も楽しみです
本当はもった論理的にM-1について語りたかったのですが、気持ちが入ってしまってあつくなってしまいました。
これを書いている時点ではまだ自分は2019年のM-1を見れていません。子供の寝かしつけで見れないので、録画してゆっくり楽しみたいと思います。
個人的には和牛さんに敗者復活からあがってほしいけど、どうかなどうかなーーーー!