閑話休題⑨
思っている事を書くだけなのに、書き出しが決まらないで今に至る。
とりあえず話し始めて見ようと思う。
「宮坂 澪(みやさか れい)」名義で「吾輩はACである。特に問題は無い」を投稿し始めた頃は考えもしなかった事件が起こったのが、去年の夏だった。
宗教二世問題の当事者団体「宗教二世問題ネットワーク」が出来たのは、昨年の12月。団体の設立者たちの活動を、少し離れた立場から見ていた私である。
私の率直な気持ちとしては、当事者といっても色々だと思っていて。
活動に人生を賭けてしまった、というよりも賭けざるを得なかった人が活動の中心となりメディアで発言せざるを得なかった事情に関しては、頭を下げて、目を閉じて、胸を痛めるしかないし、心苦しいしで、どうしようもない。
正直な事をいうと、言論闘争の際限の無さに対して私は、無知過ぎたのだ。どちらかが倒れるまで戦わざるを得なくなった状況を考えると、暗い気持ちになる。
統一教会に対する、解散命令の事に関して思う事。
というよりも、統一教会に対する反対運動のようなものに足を突っ込んで発言した者として、振り返ってみて思う事がある。それは、結局、元信者というのは、社会の中ではマイノリティだ、という事なのだ。
おそらく数年後には我々、統一教会の現役信者とそんなに変わらないくらいの扱いになるんだろうな、という漠然とした感覚がある。
マイノリティに対する「世間」の扱いは、そういうものなんだと思っているのだ。
という事を考えるに、霊感商法は嫌いだけど、宗教を信じている人そのものは憎まない、というスタンスを私はここに改めて、静かに表明しようと思う。
大きな声で言うと、仲間だと思っている人を不用意に傷つけて、したいと思っていない喧嘩をするはめになりそうで、それが嫌だから。
命がけで活動をするという事は、信仰なんだろうと思う。
私は二度と信仰はしたくない。命をかけて何かをするというのは、身近な人に迷惑がかかるからだ。
死んだら何にもならない。
肉体の死よりも魂の死の方が怖いという人がいるだろうけど、私は肉体の死のみが死であると考えるので、魂なんていう言葉は脅し文句にもならないのである。
人や団体を裁くのは、人が作った法律なのだ。
死人の事は、死人が考えればいいと思う。
現に苦しんでいる人を救うのは、人間なのだ。
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