愛を伝えたいだとか。

コロナの第3波のニュースが駆け巡る中、人々はコロナ禍が明けるのを願う気持ちと、これ以上付き合いきれないという気持ちを抱えながら、街に繰り出す。
人が混み合う中、懸命にコロナ対策を進めるカフェで、ビートルズを聴きながらしみじみとキーボードを打つ。

このコロナが僕らに何を与えたのか、というのはネットニュースを始め山のようにあるわけなのだけど
僕に何を与えたのか、というのはそれこそ人口分のストーリーがあるわけで、若い人なら歳を取った時、海の見えるコテージで波の音を聴きながら孫に聞かせることだろう。

コロナが僕に与えたものは多い。
コロナ禍に引っ越し、職を変えたのだから無理もないだろう。
それでは、それらを因数分解してみるとしたらどうなるだろう。

個人としては、暮らしに興味を持つようになった。
今までも興味がなかったわけではないが、いや、興味がなかったと言っていいかもしれない。
住んでいたのは古い木造アパート。
駅が近くて、安ければいいや、くらいの感覚だった。
というのも、平日は終電近くまで働きほとんどオフィスにいたし、休日も出かけていたり、1人で過ごすのもカフェだったから家というのはただの寝る場所だった。
壁と屋根さえあればいい、と思っていたし、本当に家っているのか?と思いあえて家に帰らずに過ごすという実験をしたこともあった。
それが、コロナでそうもいかなくなった。
オフィスに行けないし、カフェもやってない。
自分の生活からスタバがなくなることがこんなに悲しいことだって、失なうまで気付かなかったよ。
というわけで、家に缶詰になるわけだが、これが思いの外しんどい。
仕事する環境が整ってないばかりか、生活していてなんか辛くなってくる家の感じで、引っ越しの段ボールが転がっている状況の家に辟易とした。
散歩をしながらなんとか家との折り合いをつけていたわけだけど、それも流石に限界がきた。
そして、引っ越そうと思い立つわけなんだけど、どこに住もうかと思うと自分の大切なものを考える必要が出てくる。
しかも、リモートワークだしどこに住んでもOKという追い風が吹き荒れているわけだ。
私の思考もあらゆる暮らし、生活、人生を駆け回った。
そして、実際に、東京以外の場所にも内見に行ったりもした。
この思考の根本は何かというと、成長至上主義的な自分と持続性至上主義的な自分の中での思考だったように思う。
言ってしまえば、「東京で登りつめようぜ、ヘイ!」という自分と、「登るってどこに登るんだい、君は?」という自分とも言えよう。
昔からこの問いはあったように思う。
勝負ごとが好きじゃない自分と、勝負しない人生をぬるいと思う自分。
どっちも自分なんだけど、時によって微妙なバランスで顔を出し、スタートアップや新規事業という形で発露することもあれば、途上国や地域への関わりという形で発露することもあった。
結局は、東京の、しかも都心に住むことにしたんだけど、でもこの問いを今まで以上の深刻さと解像度を持ってできたのは自分としていい時間だった。
ここで、少しトイレに行くので、お待ちを。

トイレから戻ってきたので、もう少し話を進めよう。
寒くなってきて頼んだコーヒーをホットにしておけば良かったと後悔しても、時はすでに遅し。
成長至上主義的な自分をもう少し突き詰めていくと、ある種の強迫観念だった。
幼少期に周りの人間と上手くやっていくことに苦労した私が、一気に認められた(ように見えた)のは勉強ができることに気づいた時からだった。
勉強ができる人というある種のレッテルにより市民権を得て、それが私の拠り所になっていたようにも思う。
良かったのは、やるせなさに押しつぶされなかったことだが、同時にその経験は「何かをしてこそ認められる」という観念を植え付けた。
ありのままの自分で勝負する、そのままの自分で認められる、というのは幻想だ。
君のありのままに誰が興味があるのか、と冷徹な声が胸を刺す。
そして、私が大学生になった時、その無意識的な思いが1つの明確な形を形作った。
「全ての人が大義を持ち、その野望を掲げて生きるべきだ。」
「自分は容易い幸せのためには生きない。自分が苦しんでも、周りを幸せにするんだ。社会を前進させるんだ。」
そんなことを考え始めた。
真剣に自分は幸せになってはいけない、自分が幸せにならずに苦しんででも、いや苦しんでいることが何かをしていることだと思っていた。
いつしか、自分を追い込むことでしか、生の実感を得られなくなっていたのかもしれない。
そして、脇目も振らずに突っ走った。
自分の野望を、志を、大義を掲げたかった。
それこそ、そのために、会社も、日本も飛び出した。
けど、そんなものは、なかった。
なかったんだ。
ある日、気づいてしまった。
いや、本当はもうずっと気づいていたのかもしれない。
自分を苦しめてまでやりたいことなんて、ない。
このために死ねる、なんてものはない。少なくとも今は。
そう気づいたけど、認めたくなかった。
毎日、陳腐な言葉だけど、明日が来るのが怖くて、広い世界の中でとても狭い檻に閉じ込められた気持ちだった。
自分の理想にそぐわぬ自分を受け入れて生きることが、これほどに辛いものか。
「人というものは、周りの人や社会に絶望した時に命を絶つのではない。自分に絶望した時に命を絶つのだ。どこまで行っても、自分からは逃げられないから。」
昔誰かに聞いた言葉にも首肯するほどだった。
狭い檻の中で、いつその扉が開くのかはわからなくて、でももがかないとずっと開かない気がして、必死にもがいた。
自分だけならまだしも、周りにも厳しく接するようになっていた。
自分が好きになれないし、そんな自分を大切にしてくれる周りの人も、いつからか好きになれなくなっていた。

そんな時に、コロナが来たんだ。
もちろん、そんなに人生ってのはドラマチックじゃないし、何か1つのきっかけで稲妻に打たれたように変わるのは、マーベルコミックスだけでいい。
けど、複雑に絡み合ういくつかの糸の、その1本、それはとても太く無視できない1本だったと思うけど、がコロナだったことは確かだ。
もう、いいやって思った。
自分を許そう、と。好きになろう、と。
バカな息子をそれでも愛そう、と。
何もできなくったって、大義がなくたって、お前は生きてていいんだ、と。
前に進んだと言えば聞こえはいいけど、もうしんどくなって限界が来たという方が合っている気もする。
今もまだそんな自分を敗者のように捉える自分がいないわけじゃないし、そんな自分に同意する部分もあるんだけど
でも、もういいんだ。大丈夫。よくやったよ。
そんな風に今は思う。
そんなこんなで、成長至上主義的な自分はついに、ようやく白旗を上げたわけだ。

そして、努力して、今も努力してる。
自分を好きになれるように。許せるように。愛せるように。
周りの人を好きになれるように。許せるように。愛せるように。
社会を、世界を、とは言わない。
「人は大きなもののために生きているんじゃない。もっと小さなもののためにこそ生きてるんだ」
昔読んだ小説にそんな言葉があったけれど、言ってみればそんなところだろう。
社会、世界なんてものはない。
僕がいて、友人がいて、家族がいて、その地平線を果てしなく行ったら、それを社会とか世界とか呼ぶのかもしれないけど、呼ばないのかもしれない。
「僕は歳を取っても老眼にはならなかったけど、逆に遠くがよく見えないんです。でも、それが嬉しいんです。遠くは見えなくてもいいから。大事なのは近くのことだから。」
大好きなロックスターが、語った。
涙が出そうだった。
その歌声と歌詞に何度も励まされてきたけど、この人は歳を取っても、いや歳を取ったからかもしれないが、なんて素敵なことを言うんだ、と。
もちろん、それは自分中心とか、分断を進めるとかそういうことでは断じてない。
むしろその逆で、周りを大切にするからこそ、その先に広がっているものももっと大事にできるんだ。
手触りのあるもの、語り合える人、そして何よりも自分。
まずは、そこから始めよう、ってことなんだ。

そしたら、世界は違って見えた。
大義を持って生きられる人は生きたらいいけど、大義を持って生きなきゃいけないって苦しんでいる人が見えた。
かつての自分と重なった。
大事なのは、みんなが大義を持つ社会を作ることじゃなくて、みんなが小さなものを大事にできる、その小さな世界の1つ1つが矛盾しないような社会なんじゃないかって思った。
社会って言葉を使ってるじゃないかって?
まあ、そんなもんだよ。
とりあえず、そんなことを考えるようになって、
今までは「個人」に向かっていた関心が「コミュニティ」に向かい、
「成長」に向かっていた関心が「個性」に向かい、
「ここではないどこか」に向かっていた関心が、「今ここ」に向き始めた。

そんな折、多拠点生活のプラットフォームであるADDressにご縁があり、ジョインすることになった。
人々の生き方の可能性を広げ、新しい社会を作っていく、壮大な試みだ。
そして、コミュニティや暮らしの体験をどう作るかという部分を担当させてもらっているので、新しい研究テーマに最先端の場所で向き合える喜びに日々浸っている。
もちろん、もともとやっていたKakedasでの仕事も続けている。
日本に相談のインフラを築き、人生の主人公を増やす。
みんな辛い時は声を上げずに、終わってからそれをいい経験だったと話す。
このnoteみたいに、ね。
でも、辛い時にこそ声を上げたらいい。
そんな風な社会になればいい。
Kakedasではそんな世界を作りたい。

書けてないことは多分いっぱいあるし、当時の温度感というよりは、過去の回想として美化してまとまっていることもあると思う。
何が本当かなんて分からないけど、今僕が書いたこの言葉の1つ1つが本当ということでいいはずだ。
何を伝えたいのかいまいち分からないし、つらつらと書いた体験談だけど
まあ、それもいい。それでいい。
君は君だ。
ずっとそのままでいていいなんて言うつもりはないし、いつかは走り出さないといけないだろう。
でも、どうせいつかそんな日が来るのなら、まあ今日くらいはゆっくりしていきなよ。
大丈夫。焦らなくてもいい。
自分を好きになって、手の届くものを大切にして。
そこから始めればいいじゃないか。
辛い時は逃げたっていい。
いつまでも逃げ続けるのも飽きるから。
逃げている間にどこかに辿り着くかもしれないよ。
走り出す日は君が知っている。
行こう。1歩1歩。

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