【連載企画】十曜旗の下に 飫肥藩士列伝
初代藩主伊東祐兵が江戸幕府から5万7000石の所領を安堵されて以来、約260年続いた飫肥藩。太陽とその回りの惑星を意味する十曜の藩旗の下で、藩のため、民のために力を尽くした藩士の功績と人物像に迫る。
※このコンテンツは、2008年1月8日~1月13日まで宮崎日日新聞社・日南・串間版に掲載されたものです。登場される方の職業・年齢等は掲載当時のものです。ご了承ください。
1.山田 匡得
■用兵の才たけた猛将/死後は軍神に領民尊敬
日南市の飫肥城趾内の一角にある飫肥城歴史資料館。飫肥藩ゆかりの資料がずらりと並ぶ中に、独特な雰囲気を漂わせる古びた甲冑がある。持ち主の名は山田匡得。かつて隣国にまでその名をとどろかせた飫肥藩の猛将だ。
「日向記」などによると、匡得は天文6(1537)年、伊東家家臣山田宗続の嫡男として都於郡(現西都市)に生まれた。匡得とは後年に仏門に入った後の名前。平安後期の学者・大江匡房の兵法を学んだことから号したとされる。
十代のころから武芸に秀で、主に島津との戦で数々の戦果を挙げた。元亀3(1572)年の木崎原の戦いで島津に大敗し、主君義祐らが豊後(大分県)に逃れた後も新納院(現木城町)の石城に籠城。伊東方の残党を率い、島津の大軍と五分以上に渡り合ったという。
その後、義祐らは豊後からさらに伊予(愛媛県)へ移ったが、匡得は石城などでの用兵の腕を買われて豊後に残留。佐伯の栂牟礼城を侵攻してきた島津軍を、幾度となく退けた。
義祐の嫡男祐兵が豊臣秀吉から飫肥、清武など二万八千石を安堵されると、豊後の大名・大友宗麟の慰留を断り伊東家の家臣に復帰。飫肥城歴史資料館に展示されている甲冑は、宗麟がはなむけに下賜したものだ。
また「日向纂記」によると、匡得が伊東家の家臣に復帰した際、薩摩の大名島津義久が伊東家の豊後落ちで捕らえていた匡得の妻子らに金銀を与えて送り返したという。真偽のほどは定かではないが、いずれにしても匡得が友好国の豊後だけでなく、薩摩でも名将として畏怖されていたことがうかがわれる。
晩年の匡得は江戸時代に入り飫肥藩が誕生した後、薩摩藩に隣接する西の守りの要・酒谷の地頭に任じられ、元和6(1620)年に死去するまで藩士の鍛錬に努めた。領民には死後も軍神としてあがめられ“四半的の祖”とする説が提唱されるほど。資料館に鎮座しているあまり派手ではない武骨な作りの甲冑は、見ている者をじっと見据えているかのような厳かな印象を与える。
亡きがらは酒谷神社近くに埋葬され、墓石は今でも島津領ににらみをきかせるかのように、南西の方角を向いている。
「墓参りに行くと、墓前にさい銭や花が供えられていることがある。有名な武将である以上に、地元の人々に愛されていることがうれしい」。匡得から数えて十三代目の子孫の山田祐明さん(73)=宮崎市霧島四丁目=は先祖について話し、誇らしげな表情を浮かべた。
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