【連載企画】児湯・西都の地名考❸
地名にはその土地に暮らした人々の思いが詰まり愛着がある。児湯・西都地域の地名を紹介しながら、由来や変遷、人々の思いなどを紹介する。
このコンテンツは2006年4月12日~2009年3月25日まで宮崎日日新聞社本紙「児湯・西都版」面に連載されたものです。登場される方の団体・職業・年齢等は掲載時のものです。ご了承ください。
41 松原(都農町)
今も語り継ぐ三本松の記憶
「昔、ここは六地蔵と呼ばれていた」。昨年取材で地区を訪ねた時、そんな話を聞いた。「ろくじぞう」とは呼ばないみたいだ。あまりにも現在の地名とかけ離れているので驚いた。
松原は、町中心部の南側に位置し、旧国道10号を挟んで東西に広がっている。今は二百四十五世帯、六百十人が暮らす住宅地へと姿を変えているが、かつては広大な松林があった。地区の中心を通っていた道沿いの松並木は、古老たちの記憶に今も刻み込まれている。
先人たちの大半は、明治から昭和初期にかけて四国から移住。松原の名はその当時からあったようで、松林に由来すると考えるのが自然だ。
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六地蔵は、苦悩を救う仏教の六道を伝え、六面にそれぞれ地蔵が彫られいるものだ。地区内にも残っているという。元公民館長の黒木忠信さん(70)に案内してもらった。
旧みなみ保育所裏の一角に六地蔵があった。高さは150㌢ほど。風雨にさらされ、地蔵はおろか刻まれた文字もほとんど判別できない。
町史によると、支柱には天文3年(1534年)と彫られている。梵字もあるようだ。ただ、肝心の六体の地蔵があったかどうかはよく分からない。
黒木さんは「地蔵が彫られていたと思うのだが」といぶかしげな表情を浮かべる。
明治末から大正初期にかけての都農村住宅図を見ると、この六地蔵は元来、地区内の国道10号名貫交差点付近に置かれていた。その後、現在地近くに動かされて今に至っている。
「ろくみぞう」と呼ばれていたのは「ろくじぞう」がなまってのことだろう。町史には「ろくみぞ」とも書かれている。
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1907(明治40)年の青年会結成時を発足の起源としている松原地区。六地蔵の地名は、その後も使われていたようだ。地区が、松原と呼ばれるようになったのは大正初期のころ。地区発足80年でまとめられた「松原の歴史」に記されていた。
松並木は戦前から戦後にかけて、次々に切り倒されていった。当時、その中でも町内で知らない者はいないと言われていたのが三本松の大木。戦後間もなく伐採されたが、三本が連なり威容を放っていたという。
ここで生まれ育った無職岡田勝男さん(76)は「小さいころは、三本松の下に集まって集団登校していたものだ」と懐かしむ。
三本松は地区の象徴として住民に親しまれてきた。昨年、地区発足百年の節目を迎えた松原。三本松という宝があった事実を連綿と語り継いでいる。
42 塊所(木城町)
集落の中心に鎮座する塊山
木城町の山あいに位置する中之又。今回は中之又地区を構成する六つの字の中で最も人口が多く、中心地的な存在でもある「塊所」を取材した。現在、19世帯31人が生活している。
古くは松尾鉱山や林業で栄えた土地で、今でも住民の拠り所である中之又小をはじめ、公民館や中之又総合福祉センターなどの施設がひとまとまりになっている。
昭和30年代の中之又の人口は八百人以上とも言われ、そのほとんどが塊所に集中。集落中央部に棚田のように見える個所は労働者やその家族が暮らしていた住居跡で、むき出しになったコンクリート基礎部分が繁栄していた往時をしのばせる。
◇ ◇
労働者たちでにぎわった時代を反映して「こぶとこ(塊所)、飲むとこ、ほるとこ」という言葉がある。ちなみに「ほる」は酔っぱらいが“山芋を掘る”ことのようだ。山あいの繁華街的な機能を果たし、その人口の密集ぶりを地名の由来と考える住民もおり「人が集中し、ひと塊りになっていたからでは」との意見も聞かれた。
しかし、地区の古老たちによると、もともと三軒の家族(児玉、橋口、黒木家)が移住してきたことが集落形成の発端という。そのころは既に、塊所の地名があり、「人口密集イコール塊り」の説は薄くなった。
◇ ◇
最も聞かれたのは「塊山」がある所という説。塊所の中心部にそびえるシンボル的な存在で、中之又小校歌にも登場するほど。地区民に伝わる「こぶとこ(塊所) 焼け山(松尾鉱山の鉱物精製時に出る焼きガラを積んだ山) 前はこぶ(塊山)」の言葉にも引用されている。
円錐状で川床から山頂までの高さは約40㍍。集落を見下ろすと、塊山を囲むように住居が点在しているのが分かる。
ふもとに暮らす住民は、シンボル的な存在に敬意を払いつつも「塊山のおかげで日陰になり、冬場は特に日照時間が短い」と嘆く。中之又板谷の中嶽忠男さん(75)は、「塊」を当てた経緯や明確な由来は分からないとしながらも「こぶ(瘤)はそもそも邪魔、妨げになるものの意味。“厄介な存在”に感じた住民も多いことだろう」と語った。
木城史友会会員で中之又屋敷原の中武福男さん(79)は、生徒数が二百人を超えた中之又小、中学校の全盛期にはグラウンドが手狭になり、塊山を切り開くことで運動場を確保しようとしていた裏話も教えてくれた。
時には厄介もの呼ばわりされ、一時は消失の危機にさらされた塊山。山頂には、中之又弓木から移された御大師様が安置される。例祭を執り行っていた歴史もあり、住民の愛着も感じるところだ。これからも集落中心部に鎮座し続け、中之又の歴史を見守っていくことだろう。
43 聖陵(西都市)
古墳にちなむ旧制妻中愛称
西都市役所の住所は「聖陵町二丁目一番地」だ。国の特別史跡・西都原古墳群があるまちだけに、「みささぎ(天皇・皇后の墓)」を意味する「聖陵」という地名がついているのは自然だと思っていた。調べてみると、聖陵町が誕生したのは1974(昭和49)年3月1日だった。
1963(昭和38)年1月24日。同市の平助通りで起きた火事は、密集した商店街を瞬く間に焼き尽くし、百世帯400人以上が焼け出された。これを契機に中心部で土地区画整理事業が始まり、国鉄妻線より西側の工事が終わった1974年、田畑だった市役所周辺の地名は「大字妻」から「聖陵町」に変わった。
元助役で都市計画課職員だった滝井清次郎さん(62)は「できるだけ地元に分かりやすい地名をつけて審議会に諮問した。聖陵町は妻高校一帯を『聖陵ケ丘』と呼んでいたから」と教えてくれた。
▽
聖陵町周辺には「聖陵通り」「聖陵坂」などの場所がある。妻高校同窓会「聖陵会」第九代会長を昨年まで16年間務めた旭吉法耿さん(74)=同市三宅=は、「聖陵」は旧制県立妻中学校(現妻高校。以下、旧妻中)の校歌で歌われてから、市民に親しまれるようになったと語る。
常磐の森の聖陵に
礎固き我が母校
時は流れてかはれども
仰ぐは同じこの遺訓
神代の日向偲びつつ
勉め励まん諸共に
旧妻中は1923(大正12)年4月に開校。1925(大正14)年4月に西都原古墳群近くの現在地に新校舎が完成した。
校歌は初の卒業生を出した1928(昭和3)年、国語教師の田所國輝が作詞。若山牧水に依頼する案もあったが、「第三者の名作より本校職員の作った校歌が有意義」と山内愛助校長が託した。
その2年前の1926(大正15)年3月、歌詞の「聖陵」と同じ名称の校友誌「聖陵」が創刊されている。
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どこから「聖陵」という言葉が生まれたのか、創刊号に明記はない。 「聖陵ケ丘」や「聖陵の庭」の表記が見られるのは、校歌が作られた28年の第3号からだ。
旧妻中6回生で聖陵会第四代会長だった小畑正男は、戦後復刊した1967(昭和42)年の聖陵第十三号でこう証言している。
「大小三百余の古墳群のある西都原台地、その一角に二階建て校舎が市街地を見下ろすようにして出来上がったとき、われわれは目を見はって驚いた。四十余年も前のことであった。御陵にちなんでここを“聖陵が丘”と誇りを持って呼んだ。卒業生の会を聖陵会というのも、それに由来しているのである」
西都原古墳群では大正元年から六年に、日本初の本格的な発掘調査が行われた。愛国精神が強く叫ばれた時代でもあった。当時の情勢から、古代文化の中心地に校舎を置く自負と西児湯地方の文教の要としての責任感が、学校関係者に「聖陵」という言葉を思いつかせたのだろう。さらに校友誌や校歌で親しまれ、古墳群を示す尊称が母校の愛称へと変化したのかもしれない。
44 溜水(新富町)
新田原台地を潤した水がめ
溜水という地名は、2006年9月にも一度取り上げている。場所は木城町だったが、新富町にも同名の地区がある。木城の溜水は地名の由来がはっきりしないものの、水が豊富な場所であると紹介した。果たして、新富の溜水の由来はどこから来ているのか。地区の歴史をたどりながら、近づきたい。
◇ ◇
新田原台地の南端に、35戸が居を構えている。航空自衛隊新田原基地の南側に位置し、一部民家からは滑走路が見える近さ。騒音が大きい激甚地区の一つでもある。
地区内に小さなロータリーがある。町内には少ないので、興味をそそられる。歩いてみると、そばにお大師さまの像が並んでいる。
地元の大西英二さん(60)によると、以前はロータリーの場所にお大師さまが祭ってあった。道路を舗装した際、影をつくっていたモミノキが枯れてしまったので、今の場所に移したという。毎年3月には地区でお大師講がある。
お大師とは、弘法大師のこと。弘法大師といえば、88カ所の霊場で知られるように四国で信仰が厚い。ロータリーから少し歩くと、立派な金比羅宮もある。想像通り、ほとんどの住民のルーツは四国にあった。
町史によると、1883(明治16)年、香川県から秋山、岸上、竹内家が転入。以後、四国からの移り住む人が増え、現在の地区ができた。入植以前は、一軒の民家もない原野だったという。
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「昔大きな沼があったらしい。そこから名が付いたのではないか」。大西さんの言葉を裏付けるべく、長老格の富田正光さん(86)に話を聞いた。
香川県豊浜町(現在の観音寺市)に住んでいた富田さんは1927(昭和2)年、両親と共に入植した。最も後発の入植者だったという。「くぼ地が続き、そこに水がたまっていた」光景を覚えている。今は池などないが、注意深く見ると、土地は緩やかなV字型にへこんでいる。「昔の家は強くないから、台風を避けるためくぼ地に家があった」。もとはかなり起伏がある土地らしい。
「2、3㍍掘るだけで水が出たり、底なし沼があった。たくさん水があったから、溜水といったのではないか」と富田さん。いつ地名が付いたか定かではないが、広い新田原台地の中で常に水をたたえていたため、この名が付いたのだろう。
困難な開墾作業が続く中、住民はうまく水を利用した。富田さんによると、千切り大根を作るときなど農作業に使用。近くにあった製糸会社も小さな池からわき出る水を使ったという。
基地拡張に伴い、一部民家が移転。地区のかたちは変わったが、開墾の歴史を共有する住民の団結力は変わらない。
45 水車(高鍋町)
開墾当時4基精米フル回転
陽光できらきらと輝く水田が広がる、高鍋町の老瀬地区。その山側は烏帽子形という地名が残り、烏帽子形の中の南側集落は水車と呼ばれている。小高い場所に位置することからも分かるように、山を開墾して築かれた集落だ。
地名の由来は、いたって正直。精米に使われた水車があったことに起因していた。その数は4基といわれているが、現存するものはない。最後の1基は終戦直後の昭和20年代初めに台風で壊れたという。
農業を営む鈴加美人さん(74)方の水車が最も大きく、直径8㍍ほどもあったらしい。鈴加さんは「おふくろが、頼まれたもみを馬の背に載せてうちに運び、脱穀して配達していた。忙しいときは一晩中、水車が回っていた」と懐かしそうに話してくれた。
では、いつごろ生まれた地名なのか。水車を回していた水は当時も今も一帯の水田を潤す加志揚ため池へ注ぎ込む。ため池が造られたのは高鍋藩時代。200―300年前と思われる。その後、土地が開墾されて水車が作られたわけだが、鈴加家の場合は、曾祖父が開墾したというから百数十年ほど前の話になる。そのころから住民間の呼称として定着したのだろう。
ため池の水源を求め、集落から百㍍ほど山に入ると、一対の滝に出合った。老瀬観音滝。向かって左側が高さ5㍍ほどの雄滝、右側が4㍍ほどの雌滝。二つの滝を隔てる岩には、観音像がたたずむ。1827(文政10)年に作られたとされる石仏だ。安産、五穀豊穣、難病平癒のご利益が信じられ、今も町内外から参拝者が訪れる。
ため池は現在、農村広場として整備され、憩いの場となっている。滝、水車、ため池。この水の流れに、住民たちは時代を超えて特別な愛着を持ち続けている。老瀬公民館の平野秀久館長(67)は「ここの水は地区の神様のようなもの。水車はなくなったが、滝とため池はこれからも大切にしたい」と語る。
ため池の周囲には今年も色とりどりのこいのぼりが泳ぐ。住民たちが子どもたちの健やかな成長と地区の「幸せ」を祈り、語呂合わせで四十八匹を揚げている。
老瀬は53世帯の小さな地区だが、中学生以下の子どもが22人もいる。平野館長は「雄滝、雌滝に挟まれた観音様は子宝を授けてくださるとも信じられている。だから、子どもが多いんですよ」と笑う。「水は地区の神様」という言葉がすんなりと胸に落ちた。
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