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【連載企画】鞍岡生まれ 知略の武将 宗運の風景

 戦国時代、肥後(熊本県)の阿蘇氏の重臣、そして御船城主として数々の武功を挙げた武将甲斐かい宗運そううん。現在の五ケ瀬町鞍岡くらおかで1515(永正12)年に生まれてから、今年でちょうど500年にあたる。知略による無敗の武将として戦国の九州にその名をとどろかせた。しかし、鞍岡での宗運に関する史料は乏しく、本県で生を受けたことはほとんど知られていない。鞍岡には今年、史談会が発足。あいまいだった甲斐氏の足跡を調べて発信し、地域活性化につなげようと動き始めた。城主として活躍したゆかりの深い熊本県御船みふね町の様子も紹介しながら宗運を眺める。

 甲斐親直かい・ちかなお宗運そううん 戦国時代の肥後国阿蘇氏の重臣。1515(永正12)年、鞍岡の国人領主であった甲斐親宣ちかのぶの子として生まれ、幼少期まで鞍岡で過ごす。元服する15歳ごろまで暮らしたという説もある。父親宣をしのぐ知勇を持ち、1541(天文10)年の木倉きのくら原(熊本県御船みふね町)の戦いに勝ち御船城主に。その後も阿蘇氏を守るため隈庄くまのしょう(熊本市)の戦い、丹過瀬たんがのせ(熊本市)の戦い、響野原の戦いなどで知略を駆使して勝ち続ける。永禄年間(1558年~)に親直は入道し宗運そううんと号す。天下への野望より阿蘇氏への忠誠心を生涯持ち続け、島津しまづ氏、龍造寺りゅうぞうじ氏という九州の巨大勢力のはざまで生き残るために腐心した。一方で逆臣として息子2人を殺害。阿蘇氏に背く者は身内でも容赦しなかった。1585(天正13)年ごろ死去。享年75とされるが、死亡年次については諸説ある。

【参考文献】
▽高千穂太平記(西川功著、青潮社)
▽甲斐党戦記 (荒木栄司著、熊本出版文化会館)
▽五ケ瀬町史 (五ケ瀬町)
▽日本歴史地名大系第46巻 宮崎県の地名(平凡社)

※このコンテンツは、2015年8月20日~9月17日まで宮崎日日新聞社・本紙文化面に掲載されたものです。登場される方の職業・年齢等は掲載当時のものです。ご了承ください。


1.鞍岡史談会

生誕地の確定目指す

揚城など史跡調べ発信

 7月中旬の雨降りしきる朝、五ケ瀬町鞍岡のあげ地区に鞍岡史談会メンバーら十数人が集まった。場所は秋葉神社の鳥居前にある駐車場。簡単な打ち合わせを済ませると一行はこの鳥居をくぐって急な石段を上っていく。石段の両側はうっそうと木々や草が生い茂り、急峻きゅうしゅんな傾斜は簡単に人を寄せ付けない雰囲気を漂わせている。実は小山を形成するこの神社の敷地がそのまま、昔は揚城という山城だった。「博多日記」という昔の文献にはここが鞍岡城だったと記されている。

揚城跡の郭跡や石像などを調べる鞍岡史談会メンバー。
宗運の父親宣が城主だったとみられる=五ケ瀬町鞍岡

 史談会は今年、鞍岡に残る甲斐親直ちかなお宗運そううん)の生誕地やさまざまな史跡を調べて発信することで町おこしにつなげようと15人で発足した。発起人の秋本良一さん(62)は「五ケ瀬川の源流域のこの一帯にはいろんな歴史がある。一説では60戦無敗という宗運の鞍岡での消息を中心に調べていくことで鞍岡を盛り上げたい」と意気込む。

 秋葉神社の石段を上ると、会員たちは散り散りになり、土塁や堀などのくるわ跡を確認し寸法などを測った。「木が立っているが、ここは昔原野だったのでは」「測量をした方がいい」。会員たちの意見が飛び交う。神社自体は宗運の死後ずいぶんたってから創建されたものとみられ、石灯籠には「享保十七年」と刻まれている。西暦でいうと1732年。享保の大飢饉ききんが起こった年だ。やしろ内にあった天神様の木像も後の世のもの。神社の建物には揚城主の痕跡らしきものはなかったが、しっかりとした郭跡が機動性を持った山城であったことを容易に連想させた。

 宗運が生まれた1515年ごろ、この城の城主は父の親宣ちかのぶだったといわれている。今回の調査は、親宣が揚城やその近辺の館にいた証拠を得ることで、宗運生誕の地も定めていこうという目的がある。
 親宣の手がかりを調べるのはこの城跡だけではない。一行は揚城跡近くの田畑が広がる荻原地区へと向かった。

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