【連載企画】児湯・西都の地名考❷
地名にはその土地に暮らした人々の思いが詰まり愛着がある。児湯・西都地域の地名を紹介しながら、由来や変遷、人々の思いなどを紹介する。
このコンテンツは2006年4月12日~2009年3月25日まで宮崎日日新聞社本紙「児湯・西都版」面に連載されたものです。登場される方の団体・職業・年齢等は掲載時のものです。ご了承ください。
21 牛牧(高鍋町)
平安期に牛の官営牧場設置
高鍋町の西の台地を総称する牛牧地区は、役場近くの黒谷交差点から県道杉安高鍋線の黒谷坂を上りきったところから広がる。昔の人が「上野」「上ん原」とも言ったという地区は、意外に知られていないが牛牧遺跡をはじめ前方後円墳や円墳の計13基からなる牛牧古墳群があり、古くから集落があったことがうかがえる。
◇ ◇
地名も随分古いようだ。「たかなべ地名の由来」(町教委など発行)によると、平安時代までさかのぼるという。
平安中期の延長5(927)年に成立した日本の基本法典である延喜式の丘部省の部には、官営の牧場が置かれた18ケ国があり、その中の日向国には馬牧と牛牧が3カ所ずつ記されている。
馬は日本書紀に「馬ならば日向の駒」とあるように広く知られているが、牛の育成地としても有名だったことが地名の由来となっているのではないか―と、この本は指摘している。ただ、江戸期には馬が主体で、牛は弘化元(1844)年に168頭いたという記録が残っているだけだ。
近世になると、高鍋城の西に位置する高台は筑前から高鍋に移封され、高鍋藩主となった秋月氏とともに家臣が移住した。秋月家と一緒に福岡県朝倉市(旧甘木市)から移り住んだ家臣の末裔という恵利弘さん(73)は「先祖は城の西側の守りにあたっていたと父から聞いていました」と振り返る。
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戦前まではほとんどが山林で民家はまばら。苦しい生活を余儀なくされた思い出を語る地元民は多い。1930(昭和5)年に、佐賀県嬉野市から茶の普及のために父と一緒に移り住んだ太田利七さん(85)は、苦しかった暮らしぶりとともにさまざまな出来事を克明に記憶している。「ランプ生活から、昭和23年3月に電灯がついたときには、地区挙げて喜んだと日記に書いています」
戦後は南牛牧を中心に地区は飛躍的に変ぼうする。県の集団開拓地に認定され、県内外から多くの入植者が入った。しかし、農業未経験者が多く特に戦災者、引き揚げ者で家族連れの生活は厳しかった。営農資金や資材まで食料にかえて食いつなぎ、わずか1、2年で離農する人もいたと高鍋町史は記録している。
今では畑地が広がり、住宅地も増えた。時代とともにさまざまな出来事を刻んできた地区の歩みに、高鍋の歴史が垣間見えた気がした。
22 湯屋ケ坂(木城町)
わき水で風呂代参もてなす
木城町を一望でき桜の名所としても知られる城山公園。その登り口に当たる所に湯屋ケ坂と呼ばれる地名が残されている。
単純ではあるが「湯」とつくだけで温泉を思わせる地名。木城町史によると、町内の山間部にある「鵜懐」は“ユノツクロ”とも呼ばれていたとの記述があり、わき出る冷泉でシカが傷を癒やしたと伝えられる。また、木城温泉館「湯らら」の泉源そばには「湯迫」(川南町)の地名もある。由来を握るかぎは「温泉」にありそうだ。
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文献にもほとんど記載がないため、とにかく歩いて情報収集。地区住民は「湯が出よったとは聞いている」「坂のふもとに湯治場があったらしい」などと口々に話すが、その痕跡はない。
地区民が言う“坂のふもと”について同町中川原の木城史友会会員永友一郎さん(82)に尋ねると、湯屋ケ坂は椎木、岩戸、石河内方面からの道が交わる交通の要所であったことが分かった。現場に出向くと、確かに三方向に伸びる旧道の跡がある。以前、墓守が暮らしていたという三差路付近の空き地が湯屋(湯治場)の跡だとする説もあり、交通の要所だけに旅の疲れを癒やした場所と考えても不思議はない。
また、現在お湯が出ない理由について永友さんは「昔ある旅の女性が湯屋ケ坂を訪れた際、朝一番の湯でこしまきを洗濯したことから湯治場が汚れ、それ以来温泉がわかなくなったそうだ」という伝説を教えてくれた。
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約二百五十年間、先祖代々この地で暮らす、農業杉尾達郎さん(75)は「温泉の話は分からないが、昔からいい水脈があることは確かだよ」と自慢する。湯治場跡とされる北側の斜面からは今も浸透水がこんこんとあふれ出る。昔は畑仕事時の飲料水として用いられ、現在も野菜洗いや自宅の庭の池に引くなどして愛用される。生活に密着しているこのわき水にもヒントがありそうだ。
文化財調査員の経験がある立小路の堀口隆之さん(79)は、地区の代表が遠方のお宮参りに出向く「代参」に注目する。当時、地区の五穀豊穣や安全祈願のため、参拝の旅に出る代参はありがたい存在。お札などの土産も重宝されたそうだ。堀口さんは「湯屋ケ坂では、旅から戻ったほこりまみれの代参をお風呂で接待した言い伝えが残る」と指摘。「この地域でも有名だったわき水を使って風呂をわかしたのでは」と推測していた。
お金をかけずとも、地区民の愛情のこもった風呂に入れば疲れはおろか心まで癒やされたに違いない。嫌な顔一つせず取材に応じてくれた住民たちの旺盛なサービス精神のルーツのようにも感じた。
23 元米良(西米良村)
大王伝説残る菊池氏旧御所
西都支局に来て、まだ3週間。「地名考」といっても西都市と西米良村の地名をよく知らない。頭を抱えていると、西米良村役場の人からヒントをもらった。「この近くに元米良という場所があります。米良の発祥の地といわれる場所です」。早速、現地に足を運んだ。役場のある村所から国道265号を車で北へ約三分。一ツ瀬川の西岸にある小さな集落がそれだ。
◇ ◇
西米良村史や地名辞典などで調べると、幕末まで領主だった米良氏入山のさまざまな説と、地元で語り継がれている大王入山伝説に突き当たった。ここでは村教育委員長で郷土史に詳しい中武雅周さん(86)が教えてくれた話を紹介しよう。
南北朝時代の十四世紀末。南朝方の武将、肥後菊池重為が、北朝方の追討を逃れ、ひそかに米良山中にやってきた。このとき一緒だったのが、後醍醐天皇の皇子で南朝の征西大将軍だった懐良親王の子、爵松丸(のちの良宗親王)。一行は現在の元米良地区に居館(米良御所)を構え、重為は土地の名の米良を名乗った。その後、孫の重次が御所を近くの桐原地区に移した。もともとあった御所と新しい御所の場所を区別するため、「元米良」と名付けたという。
米良氏が肥後菊池氏の子孫であることは確かだが、いつ、誰が米良に入山したのか正確な史料は見つかっていない。最初の入山は重次で、十六世紀初頭という説もある。伝説の大王であろうと思われる良宗親王は実在の人物ではないという歴史家もいるし、重為は後村上天皇(後醍醐天皇の子)の息子の良成親王の子だとする説もある。米良氏入山にまつわる話は謎だらけと言っていい。
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だが、1927(昭和2)年1月24日、元米良で村民を驚かす“事件”が起きた。開墾中の荒れ地から「二十八間四方白星兜鉢」という鎌倉時代に作られたかぶとが発見されたのだ。真上から見ると金で十字型(四方)の装飾が施されていて、非常に高貴な身分の人物しか着用できなかったという。こうなると大王伝説の信ぴょう性が増すから面白い。
2003年12月。出土した場所の近くに、地元の有志が記念の石碑を建てた。かぶとは現在、東京・国立博物館に収蔵されており、レプリカが村の歴史民俗博物館に展示されている。
ちなみに米良御所が「めらしょ」、さらに「むらしょ」と呼び名が変わり、現在の村の中心地である村所になったという。
24 弁指(新富町)
古代の役職名なまって定着
東を望むと観音山、その先には日向灘の水平線が広がる。新富町三納代の弁指地区は、「馬の背」のような形をした台地にある。
東に向かってなだらかな斜面となり、四十数戸の人家が並ぶ。石垣のある細い路地を歩くと、何か発見がありそうな予感がしてきた。
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弁指は、弁済使という古代の役職名がルーツらしい。
新富町史によると、弁済使は国衙領と荘園領主の両方に属する土地に置かれた役人で、その土地で徴収される租米などを国衙と荘園にそれぞれ分別するのが役目だった。九州に多くみられ、土着地主化したという。
現在の新富町には平安時代末期、弁済使が置かれた。弁済使は弁指地区辺りにいたため、なまって弁指という地名が付いたようだ。同地区に住む、農業倉永英さん(73)は「古老がいなくなったから」と町史に書かれたこと以外は知らない様子。ただ、地名以外のことを語ってくれた。
自宅隣の畑を指し「向こうは佐土原藩、こちら(自宅側)は高鍋藩。弁指はちょうど両藩の境目にあり、互いに対峙していた」という。佐土原藩側である上富田には城元という地名が残っているが、弁指地区にも高鍋藩の出城があったと言われる。
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弁指地区には小さな神社がある。旧村社である、淤賀美神社だ。1878(明治11)年、同地区を調査した、旧飫肥藩家老・平部嶠南の「日向地誌」によると、雨ごいと大雨を鎮める、二つの神をまつっている。治水が現在ほど発達していない時代、人々がいかに雨に関心があったか、当時の暮らしぶりを想像できる。地区のまとまりは強く、毎年11月11日に例祭を行い、多くの住民が集う。
「黄金千朱倍、萩の柱千本朝日輝く夕日のもと、横田杉の木の下」―。弁指地区には地下に宝が眠るという言い伝えが残っている。
それは同地区に古墳が点在することと無縁ではないだろう。目視できるのは円墳の富田8号墳、前方後円墳の弁指古墳など3つ。長さ約70㍍になる弁指古墳は今では町道が寸断してしまっているが、一部は原形を残す。地名の由来を知る人は少なくなったが、伝説は人の心をくすぐるのか、今も語り継がれる。
25 茂広毛(高鍋町)
百済王の一族漂着伝説残る
今回は高鍋町民の記憶から薄れゆく茂広毛の由来をたどってみた。一級河川の宮田川が日向灘に注ぎ込む河口のわずかに西側。宮田川左岸の児湯青果地方卸売市場周辺を指し、大字でいえば、北高鍋と蚊口浦の境界付近となる。
その対岸は茂広毛平付と呼ばれ、宮田川に迫る山すそには「茂広毛神社跡」の石碑。同神社は明治期に茂広毛の西隣の中鶴屋敷村に移されたとされ、「毛比呂計神社」と漢字が改められている。
古文書は現存していないが、「毛比呂計神社の由来」は、祭神は朝鮮半島の古代国家・百済の王族で蚊口浜に漂着した福智王だと推測している。
同神社の永友清隆宮司(71)によると、漂着した福智王一行がぬれた衣服「裳」を広げて干したことから「もひろげ」になったという。船の帆を広げて干したため「ほひろげ」と呼ばれ、発音がなまって「もひろげ」になったという説もある。
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亡命者である福智王は上陸後、木城町の比木に安住の地を求め、今も比木神社に合祀されている。だが、福智王が比木にたどり着くまでに世話になった土地を回る御神幸祭「お里まわり」のコースに毛比呂計神社は入っていない。
比木神社の橋口清文宮司(50)は「高鍋町内の宮田、川田、愛宕神社などは回るが、毛比呂計神社には行かない。上陸した場所なのに不思議だ」と首をひねる。
「高鍋藩寺社帳」には毛比呂計神社の祭神は底筒之男神など海神三柱が記されているが、福智王の名はない。永友宮司は「海の神のおかげで命を拾った福智王本人が海神を祭ったのかもしれない」と仮説を立てる。
茂広毛の近くには福智王の船が沈んだことから「石船」、ぬれた鞍(くら)を掛けて干したことから「鞍掛」と呼ばれる地名もあったが、現在では知る人は少ない。
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茂広毛は高鍋藩の時代、秋月家の殿様が狩りの帰りに立ち寄り、茶を飲んでいたことから「茂広毛茶屋」と呼ばれ、次第に御茶屋という地名が一般的になったという。
毛比呂計神社の近くに住む農業高嶋美則さん(81)は「茂広毛の地名は70(歳)以上の人じゃないと分からんと思う。今の人は御茶屋すら知らんでしょう」と寂しげに話す。
石碑が立つ茂広毛神社跡からは高鍋町の中心部を一望でき、福智王が高鍋の繁栄を祈り、見守ってきたようにも思える。木立の間を抜け、差し込む朝日に照らされる石碑の神々しさ。百済王伝説から生まれた地名が消え去るには、あまりに惜しい気がする。
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