インスタ即興小説 『推し』
昨晩、何と読むのか分からない中華料理の店に入り麻婆茄子を頼んだのだが
なんと茄子が一つしか入っていなかった。冷やし中華にしておけばよかった。
今日のお昼、マクドナルドでピクルス抜きのハンバーガーを注文したのに
口の中でガヂリと嫌な食感がした。ピクルスが二枚入っていた。
欲しいものは手に入らないし、いらないものは過剰に手に入ってしまう。
そういうアンバランスなシーソーのことを人生と呼ぶのかもしれない。
私の人生には”そうじゃない”という言葉が似合う。
ケイちゃんと初めて出会ったのは忘れもしない2017年5月12日。
ホールのAブロック13列39番。
友人がそのアイドルグループが大好きで、初めての大きい舞台でのコンサートだということで駆り出されたのだ。
「千紗ちゃん暇でしょ?いや暇だよ。YouTubeの検索履歴が犬と猫で埋まってる人は大体暇なんだよ。だからいこ、ね、絶対惚れると思うよ」
とんでも理論を喰らい目眩がしているうちに、強制参加させられることになっていた。ライブが始まると、友人は私の耳元でささやく。
「あ、あの緑が私の推し!だから惚れるなら緑以外にしてね!よろしく!」
よろしくが夜露死苦に聞こえるくらいには圧を感じた。観客はユニゾンしてアイドルに向けて声援を送る。
私はその作法がわからないためとりあえず光る棒を胸元で振ることで場に馴染む努力をする。
その日私は、主役の6人を目で追うことはなく、バックダンサーとして必死にアピールをする彼に夢中になっていた。
私の人生には”そうじゃない”という言葉が似合う。
後ろの特大モニターにも映し出されることはない、誰かに気づいてほしそうなその無理矢理な笑顔を愛おしく思ってしまった。
ずらりとバックダンサーたちが立ち並ぶ中、その彼が偶然か必然か、私の目の前に立った。
時間にして6秒ほど。手をつないでお辞儀をして、捌ける。その6秒間。
今しかないと思い声を震わせて言った。「一番かっこよかったよ!」と。
彼は顔を上げ声の主を探し、ステージから私を探し出す。目が合い、時は静止する。
歓声も消え失せ、この広いホールで二人取り残された気分になる。
彼は手を伸ばし、言った。「また見つけてね」
公演に外れても、転売サイトで49800円のチケットが出ているなら一切の悩みなく買い取るほどにはハマっていた。
メンバーカラーは青色。やっと何色のペンライトを光らせればいいかを知ることができ安心する。
ケイちゃんは可愛らしくきゅるりとした二重、すっきりした鼻筋はいかにも”美”といった風貌だ。
大きな動きをするたびにちらりと見える腹筋。背丈は170cmと公式には書いてあるが、実際は167cmくらいだと思う。
ケイくん、よりもケイちゃん、と呼ばれる理由がしっくりくる。
毎日がとにかく楽しかった。充実していた。YouTubeの検索履歴に犬と猫の姿はなくなり、彼が写っていそうなライブ映像や
彼が尊敬しているアーティストの動画、同じアイドルのオタクをしているyoutuberの動画を見漁ることで毎日忙しくしていた。
会社でも「千紗ちゃん恋してる?表情最近明るいね」と同僚から褒められるほどになっていた。
推しは私を変えてくれる。なぜもっと早くに彼を見つけられなかったのかと悔しくなる瞬間も多くあったが
出会えなかった人生より数億倍幸せだと思い直すことで平静を保つことにする。
とある夏、彼は突然大手事務所を辞めた。事務所内のバックダンサー組7人が、同じタイミングで辞めた。
ネットは騒然となった。これは私の知る狭きネット世界の中での大事件なので、ツイッターのトレンドなんかには乗るほどのものじゃない。
しかし私たちは確かに動揺した。咽び泣く者、事務所に抗議文を送る者、他の推しを探さなきゃと焦る者、地元に帰る者。
私?私は…なぜか大丈夫だった。あれだけ頑張っていた人が易々と表舞台から姿を消すはずがないと確信していたから。
半年後、彼らは地下アイドルとして再スタートを切ることになった。今度こそ一番初めの瞬間から彼を追えることに感動を覚えた。
初ライブは小さなライブハウス。ネットで知り合ったオタク友達と「こんなに近くで見ると、逆に目合わせるの恥ずかしいですよね」と話をした。
観客みんな、この瞬間を見逃すことなく、瞬きを最小限に、アイドルの眼を追っていた。
これまで主役を輝かせるため、どこか申し訳なさそうに踊っていたケイちゃんの姿はなく、今度は堂々とセンターを務めていた。
似合うじゃん、センター。
「メンカラ変わっちゃったね。センターだもんね、すごいね」
「青色が好きだったけど、今は赤色が好きだよ。来てくれて嬉しい。千紗ちゃんだ!って一瞬でわかった。
あ、てかお話しするの初めましてだよね。いつもファンレターありがとう!
千紗ちゃんとめちゃくちゃ仲良しになってるつもりでいたわ」
「私も!握手できる距離にいるのがなんか不思議。ごめんね馴れ馴れしくて」
「千紗ちゃん初めて来てくれたの2017のホールのときでしょ?頑張ってあの時くらい大きいとこまでいくね」
多分彼にはまだ名残があるのだろう。咲けるのならばあの場所でデビューしたかった。
同期が続々とデビューしていく背中を見送る焦燥感は、私には共感してあげられない。
苦悩や悲しみ、悔しさを押し殺して、彼らは笑顔と感動と希望を届けてくれている。私たちはその事実に感謝しなければならない。
その日から、現場に足を運ぶときは紫のスカートを履くことにした。
昔の彼と、今の彼を、繋ぎ留めていられる私であるようにと、オタクなりのお節介な祈りも込めて。
あるライブの後、チェキ券を買って彼の隣に行くと申し訳なさそうに
「喉やられちゃってて…今日声出てなかったでしょ、ごめんね」と肩を竦ませていた。
こんなときに気の利いた差し入れもできない自分がみっともない。
「ううん、何もできなくてごめんね。喉にいい食べ物研究しとくね!」精一杯のオタクなりの励ましだった。
「ありがとう千紗ちゃんー!食べにいくね!一瞬で食べ尽くすね!」精一杯のアイドルなりの返しだった。
その夜、TwitterのDMに赤い点がつく。
匿名アイコンで、意味を成さない文字列のアカウント。フォローフォロワー0。即席のアカウント。
「今日もありがとうー!喉にいい食べ物、なんか見つかった?」
心臓から血が体内に駆け巡るのがわかった。ドッドッと一秒を数えるよりも疾い速度で全身が波打つ。
ケイちゃんから連絡が来てしまった。真実かどうかはわからない。が、間違いなくケイちゃんだと神経が伝えている。
慌てるな、慌てるな、と自分に言い聞かせるたびに呼吸は浅く、回数を増していく。
自分がアイドルだったら何を考えるか。
スクショをネットに晒されてファンにDMをして繋がったアイドルだとバレたら…
そのリスクを背負いながら彼は私に連絡を送ってきている。彼は一世一代の賭けに出たのだ。
彼を邪魔するオタクであってはならない。もし、万が一、誰か第三者によって
このDMのやりとりがスクショされようとも、一切の人物特定をできないようにやりとりをしようと腹積りをした。
“大根の煮物とかいいかなーっておもってた!ネギ生姜をタレにしようかなーって”
我ながら一切の動揺も見えない渾身の一通だった。この一通が審査になる。この一通が不合格なら即席アカウントごと消える。
今後一切の連絡などこないだろう。そうすれば気まずくてライブにも足を運べなくなる。オタク人生の終わりだ。
普段聴こえない時計の秒針が進む音さえ耳に纏わりついてくる。
時間にして数分、感覚にして一生が過ぎ去った。DMに赤い点がつく。
“食べたい!喉治したい!まず病院いけって話だよね。笑 いつ作ってくれるー?”
高校受験の合格よりも、大学受験の合格よりも、内定通知がきたときよりも、どの受験、審査よりも歓喜した。
なぜ自分は一人しかいないのだろう。絶対に自分とハイタッチがしたい。
拍手とはこういうときのために使うのだと改めて思い知った。
月日は流れる。
ケイちゃんはうちからライブ現場へと通うようになった。
昼夜公演があるときにはお弁当を作って渡すし、出張公演にはなるべくついていく。
メンバー全員知っている。付き合っているとかではない。いつでもケイちゃんの一番のオタクでいられればそれでいい。
センターのポジションは見違えるほどに板につき、看板を背負って立つに相応しいアイドルになっていた。
新規のファンは元の所属事務所のことを知らない子たちも増えてきた。彼はもう青ではなく赤なのだ。
地元に帰って行ったあの時のファンの子や、他の推しを見つけた子も、どこかで活躍を見てくれているのだろうか。
そうであってくれると嬉しいな、と、オタクなのに親心が芽生えてしまう。気を付けねば。
オタクはオタクであり、それ以上にはならない。弁えることが大事。
ホールでの公演が決まった。再スタートを踏み出してから、苦節三年のことだった。
ケイちゃんをちゃん付けで呼んでいるのは古参、と揶揄されるくらいには
ケイちゃんは垢抜けて凛々しさを増していた。
ホールでのライブ開催を祝して前日に二人で祝賀会を行なっていると、突然真剣な眼差しで私に問いかける。
「千紗ちゃんはさ、これからのふたりのこと、どう考えてる?」
「ふたり?私と、ケイちゃんの?」
「そう」
「んー…ケイちゃんのお世話できるのは嬉しいし、毎日応援できるの嬉しいし、元気でいてくれるなら。あ、リンゴあるよ、剥いてあげよっか」
「そういうんじゃなくてさ」
いつかはくると思っていた。いつかが、まさか今日じゃなければいいなとも思っていた。
「ステージに立ちながら、いつも千紗ちゃんのこと探してるよ。
さっきまで家に一緒にいたのに、もう会いたいな。早く見つけたいな。安心したいな。
ライトまぶしいわー、今日はどこにいるのかなーって思いながら千紗ちゃんを探してる。
紫のスカートも何着目なのそれ、すごい数あるよね多分。他のオタクのことなんかどうでもいいよ。
アイドルやめてもいいと思ってるよ。千紗ちゃんのためなら。千紗ちゃんだけのものになるよ。
正直疲れたんだよね、ファンサとか、握手会とかブログ更新とか…どんだけ頑張ってもビジュ劣化とか古参露骨に減ったよねとか書かれるし…
オタク受けの毎日はもう疲れた…
私はオタクだから〜とか言わないでよ…千紗ちゃんは一人しかいないよ…
ちゃんとした気持ち聞かせてくれないかな。好き?ちゃんと好きでいてくれてる?」
団地に住んでいた幼少期、ビー玉は何階から落とすと割れるのか、友人と検証したことがあった。
3階まではまだ跳ねる。高く跳ねる。
4階から落とすとパリンと割れる。散らばって粉々になる。
今私の頭の中に流れ込んできた映像は、意図せずそのビー玉だった。
初めて聞かれて困惑してしまった。これまでであればなんの疑問も抱かなかったのだろう。
「好き…というか…推し?かな?」
「なにそれ。恋人にはなってくれないの?」
「なんというか…そうね…男装してるあなたは好きよ、とても。
凛としていて、男としてかっこいい。こんな…私の理想を煮詰めたような男性がいたらいいなって人を
ステージ上に拝めてるだけで明日もがんばろうって思える。
疲れて帰ってきてDVDを見ると明日も頑張ろうって思える。生きる希望なの。オタクにとって。
推しってそういうものでしょ?そっか、ケイちゃんオタクしたことないもんね。わからないよね」
「そっか、女だからだよね、ごめんね、調子乗って馬鹿みたいだわ」
違うよ、ケイちゃん。男だからとか、女だからとかじゃなくて、
これまでの私ならそうやってすがっていたと思う。でも今は違う。
そうか、私は怒っていたんだ。オタクのことなんか、って言われたことに。
私はケイちゃんのことを好きだったのではなく、ケイちゃんを推している自分のことが好きだったのかもしれない。
欲しいものは手に入らないし、いらないものは過剰に手に入ってしまう。
そういうアンバランスなシーソーのことを人生と呼ぶのかもしれない。
私の人生には”そうじゃない”という言葉が似合う。