見出し画像

それぞれの場所で

年末年始は出かける用事も殆どなく、部屋で体を動かすようになったもんだから、以前だったらせめて数日に一度くらいは自分を散歩させるようにしてたのに、寒さもあって余計に外出が億劫になってしまっていたので、昨日は駅まで片道三十分の行き帰りを歩いてお店手伝いに行って久しぶりに立ち働いたら睡眠時間は少なかったのに朝バッチリ目が覚めて、ひょっとしてこれは興奮してるのかも、やはり人と接することって非常に大きいなと実感しました。店長が最近よく「だって密って楽しいじゃん」と(ふざけて)言うんだけど、たしかに、人間てそういう生き物ですものね。部屋で一人で過ごすのがあまり苦にならないタイプだからこそ、コロナ禍で改めて気づかされました。

さて。年始とは言え初詣もしてないし意気込みとかあんまりないけど、年末にアジカンのゴッチさんのツイートを見てはっとさせられて。

わたしはツイッターかなり見る方で、政治に関するリツイートはやり過ぎないようにこれでも気をつけているのですが、いいねは結構いっぱいしてます(人のいいねは見たくないから自分のタイムラインは最新ツイートから順に表示されるようにしてるけど、おすすめツイート表示?みたくしてるフォロワーの方に煙たがられることはあるんだろうな…)。発言した方へ連帯を表明したり、数で可視化されるのはそれなりに大事だと思ってて、けどRTやいいねをした時点で満足してそこで終わりじゃダメだよね、と改めて思わされました。一社会人としての自分、演奏する人としての自分が、政治的な意見を述べることを自然に地続きで結びつけられるようになりたい。この日本の社会で多数派になったような憶えはほとんどないし、思ってることを口にするの上手くなければ議論も苦手で、すぐ感情的になっちゃったり、けど自分の言葉で声を上げたり意思表示できるように今からでも少しずつでも努力しないと、それをしてこなかった自分たちや上の世代が今の日本の惨憺たる政治状況を招いてきた面がたしかにあるのだから、このままじゃ、友だちや弟のまだ幼い子供らが成長したときに合わせる顔が全くない。

年末に観た配信の対談で、ウーマンラッシュアワーの漫才が年に一度地上波で放映されて「そういう」意見を目にしたことで何となく満足してそこで終わりってだけじゃ単なるガス抜きとして作用しているに過ぎない、みたいなことを言っていて、村本さん偉いなーとは自分もよく思ってるけど、だからこそ、それほんと正論って自戒を込めて思いました。受け手側の問題として。

ゴッチさんが声を上げることで、こうやって、いろいろ大変そうだなって面も垣間見えたりするけど、その姿勢には本当に勇気づけられるし、意見だけじゃなくてもちろん音楽も素敵だし、かと思うと釜飯を炊いてインスタにアップしてたり、柔軟でいいなあと。あと単純に、与党の偉い人で顔はもちろん声を聞くのすらもはや生理的に受けつけないレベルの人が個人的に何人もいるんですが、ゴッチさんや荻上チキさんとかお顔もすっとしてらっしゃる気がします。生き方とか人となりってやはり外見にある程度は反映されますよね。しっかり生きねば。抱負か。

ところで、春樹の作品は好きなのにしゃべりがどうも苦手。何でだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?