信じる
おはようございます。
昨夜、止むを得ず死体遺棄する夢と、乗っていた船が転覆する夢を見ました。二本立てです。素直だな私の心。
一昨日の星野源動画アベ乗っかり事件のダメージ結構くらいました。一昨日昨日と、ウツウツとした気分で元気出ないけど、まあ天候よくないし気圧も安定してないだろうし、と思ってましたが、今朝は晴れてるのに晴れ空が心に映らない感じです。けど、ここで無力感に苛まれる一方では時の権力者の思う壺だわ、ということで、せめて自分を立て直すためにnoteを更新しようと思い立ちました。お目汚し失礼します。
私の心のバロメーターは食欲と睡眠です。きちんと食べられて眠れてるかどうか。食欲と睡眠欲が失せてきて平気になってきたら危険信号。二十年来の経験則です。まだまだ大丈夫。
「信じること」について書きたいなという思いはここしばらくずっと頭にありました。
ブルーハーツはマーシー派だった十代の頃からずっと心にあり続けてる「こんなもんじゃない」というマーシーソロの名曲があるんですが、
その中の一節、
目がくらむ程何かを信じる事は
時に自由をおびやかす
長年、事あるごとに思い返すフレーズです。
右翼だとか左翼だとか。
SNSでしょっちゅう突きつけられる世界観のギャップ。
先日親しい友人と電話で話してたとき、これはあくまでも例えとして聞いてほしいのですが、「『占いとかけっこう見ちゃうんだよね』とか言うときあなたは照れ笑いするけど、それを信じてる自分がちょっと馬鹿にされてる気がする、あなただから言うんだけどさ」といったニュアンスのことを言われて、はっとしました。
だって実は私めちゃくちゃ素直なんだよ!とつい言い訳したのですが、受話器越しに苦笑する彼女の顔が見えるようでした。敢えて言ってくれて、ありがとう。
二十年前、ワーホリでカナダに滞在したことがありました。はじめの二ヶ月はホームステイしながら語学学校に通って、そのとき習ったgullibleという単語をよく覚えてます。(他人の言うことをすぐに信じて)だまされやすい、という意味の形容詞です。自分もそういうところあるなと思いました。
小学生の頃、五年生で引っ越しするまでずっと、母に連れられて教会学校に通ってました。弟二人も一緒に。私が三年生くらいのとき母は洗礼を受けてクリスチャンになりましたが、父は無宗教。日曜日はいつも、午前中は教会学校、午後は父に連れられて図書館へ、というのが我が家のルーチンでした。引っ越して子供達が教会へ行くことはなくなりましたが、あれは小学校六年生の春休みだったか、母の信仰する宗派の子ども向け関東地区合宿みたいな催しに私だけ参加しました。今となっては殆ど何も覚えてないのだけれど、洗礼を受けようという決意を参加者の面前で語る年の近い人たちを見て、じゃあ私も受けようかな、やっぱり、と思ったことだけはっきりと記憶に残ってます。結局、洗礼を受けることはなかったんだけど、あのときの「やっぱり」は何だったんだろう、と今でもよく考えます。そして、母がクリスチャンであることや教会の陰口などを父が子供たちに一切言わなかったことも含めて、あれこそが、両親からの生きた教育であったなあと最近しみじみ思うんです。
もしあの経験がなかったら簡単に新興宗教にハマりかねなかったな、と「アンダーグラウンド」や「約束された場所で」を読んで思ったし、環境問題に関心があって大学で生物学を専攻したけれど、そっち方面に振り切れなかったのはそのせいだろうと思います。良くも悪くも。
ブルーハーツの「チェインギャング」という曲の一節、
一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた
自分のことだな、と思います。
そうして今日も生きている。生き延びてる。
けど最近はヒロト曲のカバーが続いてました。
なんせブルーハーツ育ちなもので。
そして、一緒に暮らしてる母は私と性格が全く違うので合わなくてしんどいこともしょっちゅうだけど、信仰があるから精神的に安定していて助かる面もあるのです。今のところは…。
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