拳法無頼ジンノー「絶殺の拳士と不死の姫君 の6」
夜の村を駆け、シャオファはノオラの家にたどり着いた。
村の中はシンと静まり返っており、家々の戸口は固く閉ざされている。村に急病人が出たというのであれば、少しは近所の者が出てきていてもおかしくないだろうに。そのような気配すらない。まるで何か、忌むべきものを避けているかのようだった。
「――っ!?」
家の前まで来て、シャオファは驚きに息を呑んだ。夜闇でよく見えなかったが、家の前の軒下には一人の男が居たからだ。
「貴方は……ノオラさんの旦那さん?」
「……」
若い男はシャオファの問いに答えることなく、うなだれる様にして椅子に座り込んでいる。身体は脱力しきっており、意識が無いようだ。
では彼が急病の人物であるのか? と一瞬シャオファはそう思ったが、すぐにそれは違うとわかった。意識を失ったノオラの夫の、こめかみにはわずかに銀の色が光っている。鍼だ。ジンノーが彼に鍼を使い、なんらかの点穴を突いて意識を奪っているのだろう。
男は意識こそ無いものの呼吸や顔色は正常であり、体調に異常があるようには見えない。一見すればただ眠っているだけにも見えるほどだ。
だがジンノーが鍼を使い彼の意識を奪っているというのであれば、そうするだけの理由があるのだろう。それが治療でないのなら――邪魔にならないようにするためか。
ならば本当の患者は、家の中にいる……。
「――何をこそこそとしておる、シャオファ」
「!」
こっそりと戸を開いて中をうかがおうとしたシャオファを、いち早くその気配を察して呼び止めたのは無論のことジンノーだ。
ギイと重い木の扉を開き、シャオファは家の中へと姿を現した。
「シャオファさん!」
「あれ! ついてきてしまったのかい?」
彼女の姿を見て、ゴラルドと産婆の老婆は驚く。ジンノーはといえばチラリと彼女のほうへと視線を向けただけだ。わずかにのぞいたその瞳の色は……ハッキリとした怒りだった。
「そんなところに突っ立っておるな。入るならばさっさと入れ」
重く、険しい声でジンノーはそううながし、これなればもはや隠れているわけにもいかずシャオファはおずおずと部屋の中へと進む。
「あの、私、急病人というのはもしやノオラさんかと思い、それで心配になって……」
その心配は的中してしまった。部屋の中央、寝台に寝かされているのは大きなお腹を抱えた若い女。村の魔術師、ノオラであった。
「ああ、やっぱりノオラさん――!」
彼女の姿を見とめ、駆け寄る。ノオラの容態は見るからに深刻であった。額といわず全身には激しい発汗があり、その表情は苦悶に満ちている。単に産気づいた、というのでないのであればこれはただごとではない。
「一体ノオラさんはどうしてしまったのですか?」
「そ、それは……」
シャオファに問われ、どう答えてよいものか、とゴラルドは口ごもった。ただの病気の類ではないのか、よほど言いづらいことらしい。
「――よかろう。儂が教えてやる」
答えたのはジンノーだ。脈を計るなど、ノオラの容態からは目を離さないままの、つとめて感情を殺しているかのような平坦な声であった。
「ジンノー殿! こんな娘さんを巻き込むもんじゃあないよ!」
それを咎めたのは老婆だった。目を吊り上げて、ジンノーに抗議をする。だがジンノーはそれを気にするでもない。
「ここまで来てしまった以上は蚊帳の外というわけにもいくまいよ」
「そんなことを言って、こんな娘さんに背負わすわけにもいかんだろうよ!」
「問題ない。選択するのはあくまで儂だ。こやつには一部始終を見せるだけのこと。……そうする必要があるからな」
シャオファにはジンノーたちの言っていることの意味はわからない。だが何か、ノオラの身に重大事……おそらくは命に関わることが起きていることは間違いない。であれば、黙っているわけにもいかなかった。
「教えてください。一体何がどうなっているのですか?」
シャオファの問いに、ジンノーは滔々と答えた。
「――この世に生を受けたる人間は、ごくわずかな例外を除き皆全て魔術を行使する力……『魔力』というものを持っており。そしてその魔力とは大別して四つの属性――すなわち地・水・火・風にわけられ、やはりごくわずかな例外を除き皆全てその四つのうちのいずれかを有している」
ジンノーは己の手を見た。その手のひらには魔術の光が宿る。
「儂の属性は『地』であるが、聖術以外の通常の『地』の魔術はまったく得手ではないな。ごく初歩の魔術ですら満足に扱えんし、魔力自体もさほどは強くない。聖術を使う際は『気』をつかうことで補っておるが、魔力そのものの強さは十人並みというところがせいぜいだろうよ。シャオファよ、おまえは自分の属性は何か把握しておるか?」
「幼いころ魔術師に鑑定してもらいましたが『風』であるそうです。……私も自分で行う魔術は不得意なのですが」
自分で行う魔術は、というのは自分にかけられた呪いの魔術とは別であるという意味だ。シャオファにかけられた完全生存複合魔術群の魔術は悪魔的な精度で編まれた術式であるが、それはシャオファ自身が行ったものではない。
シャオファもまた、ジンノー同様に魔術の行使に関しては素人同然ということだ。
「そうだな。魔術の得手不得手にかかわらず、皆全て固有の属性の魔力を有しておる。そしてこの属性というものが厄介であるのはな、特定の属性同士は反発しあう性質を持つということだ」
「属性が反発する……」
ジンノーの言葉をシャオファは繰り返す。魔力の属性、それは昼間にジンノーがノオラの属性を問いただしたことだ。
「反発する属性同士の中でもとりわけ厄介な組み合わせが――『火』と『水』よ。最悪の組み合わせといってもよい。なにせその属性の魔力を持つ者同士が深く繋がれば……どちらかが死なざるをえん」
「――!」
シャオファは驚きに息を呑んだ。
「では、まさか……ノオラさんのお腹にいる赤ちゃんは……」
「ああ。腹の中の赤子の持つ属性はおそらく『火』。ノオラの持つ『水』とは相反する属性よ」
「そんな!」
何故よりにもよって、その最悪の組み合わせが起こってしまったのか。悪意的とも思えるほどの不運に、シャオファの顔からは血の気が引いていく。
「たいして強い魔力を持たぬ一般人の母子であれば、たとえ『火』と『水』であれど多少体調を崩す程度で済む話であるが。ノオラは一流とは言えなくても魔術師は魔術師、その魔力の強さは無視できん。そしておそらくは腹の中の赤子……この者の魔力がおそろしく強いと見た。でなければ子ではなく母のほうにこれほどの容体の悪化が起こるはずもない」
ノオラの額にはぬぐってもぬぐっても激しい汗が浮かんでくる。彼女の身の内の赤子から発する『火』の魔力が、彼女の『水』の魔力と激しい反発を起こしその副作用が彼女を苦しめているのだろう。
「……な、治せるのですよね?」
それは絞り出すような声だった。
ここに来るまでにある程度は覚悟していた。ノオラの身に並々ならぬ事態が起きているのであれば、最悪の事態もありうるかもしれない。そうは心の中で考えてもいた。……しかし実際に、ノオラの身に起きていることを知ればその覚悟もどこかに吹き飛んでしまっていた。
あんなにも己の子を抱くことを楽しみにしていたノオラが、出産を直前にして母子ともどもこのような目にあってよいはずがない。その憤り、その恐れ、その悲しみ……それらがシャオファの中で暗く渦巻いていた。
「ジンノー様の治癒のお力であれば、ノオラさんも、お腹の中にいるノオラさんの子供も、どちらもお救いいただけるのですよね?」
シャオファは切望していた。シャオファが今まで出会った人物の中でももっとも強く、もっとも頼れる……そしてもっとも優しく思えたこの無頼漢であれば、どのような窮地であろうと難なく解決してくれるものだと。
その、すがるようなシャオファの瞳を、ジンノーはじっと見つめ返す。男の目に浮かんだ感情は――哀切だった。
ジンノーはシャオファの言葉に応えることはせず、後ろに控えていたゴラルドと産婆の老婆へと向き直った。
「……ゴラルド、婆さん。後のことは儂がやる。おまえたちは外に出ておいてくれ」
そう指示されたゴラルドは老婆と顔を見合わせ、申し訳なさげにジンノーへ頭を下げた。
「感謝をしてもしきれないほどにお世話になりましたジンノー様に、このような役回りをお任せいたしますこと、誠に申し訳なく……」
「気にするな。『医者』で『僧侶』で『流れ者』……なるほど考えてみれば儂ほどの適任者はおらんだろうよ」
そう言って追い払うように手ぶりをすれば、二人を暗い面持ちのままノオラの家を出た。
去り際、老婆はシャオファに、
「ジンノー様のお考えを信じるんだよ」
そう言い残していった。
取り残される形となったシャオファは所在なさげにジンノーの様子をうかがう。
ジンノーはといえば熱に苦悶するノオラの傍に立ち汗をぬぐうなどしているが、具体的になにか治療を行う気配はない。鍼も表に寝かせているノオラの夫に使っただけで、使用する様子もない。素人であるシャオファには指示できることではないが、流石にただ容態を観察しているだけでは見ているシャオファは焦れてくる。
「ジンノー様! 早く治療を! このままではノオラさんも、お腹の子も危険ではないですか!」
「――治療は行わん」
「え……」
シャオファの懇願の声を、ジンノーはにべもなく拒んだ。
「そもそもこのノオラの身に起きていることは怪我でもなければ病でもない。魔力の反発とは人間が持つ身体機能の真っ当な動きであり、外部から制限すべきものではない。……つまり、儂の術で治せるものではないのだ」
「で、ではどうされるのですか?」
「魔力の反発は抑えられぬ。かといってこのまま放置すれば、反発の負荷に耐え切れず母子ともども命を落とすだろう。――ならば手は一つしかない」
感情を見せぬ冷たい瞳で、無頼の拳士は自嘲するかのように口元を歪ませる。
「殺すのだ。この女か、あるいは腹の子か。そのどちらかを選んで殺すのだ」
「え……」
シャオファは一瞬、彼の言葉の意味がわからなかった。ここにはノオラと、その子供を救いにきたはずであるのに、それを殺すと彼は言ったのだ。
「な、何故そんなことを!」
「……言ったはずだ。今のままでは魔力の反発は抑えられず、しかして放置すれば母子ともども命が無い。ならば取るべき手はただ一つ、母か子かいずれかの命を奪い魔力の反発そのものが起きないようにするのだ」
たしかにそれは方法の一つではあるだろう。人間が生きている限りその体内に魔力を発生させている。その魔力が反発するのが命の危険の原因であるならば、魔力の発生原因……つまり生命活動を停止させてしまえばいいというのは、ある意味では正しいやり方なのかもしれない。
だが、
「そんなことが、できるわけないではないですか!」
それはあまりにも無体な方法だ。
母子の、なんら責められるべきことのない当たり前の身体の機能が原因でしかないのに、そのために命を奪われることなどあってはならないことだ。
「だがやらなければ二人の命が失われる。――他に術は無い」
ジンノーの言葉に嘘は無い。
たとえば赤子を体内から取り上げて母子を切り離し、魔力の反発が起きないようにすればよいのではないかなどと考えられるだろうが……これもまた難しい事情がある。
「人は生まれ出でるその瞬間にこそもっとも生命力を強くするという。魔力もまた同じだ。取り上げられ、産声を上げたその時に赤子の『火』の魔力はさらに強くなるだろう。さすれば魔力の反発もまた強くなり、今度こそ母子ともども命がないだろうよ」
「だからってそんな……」
冷徹ともいえるジンノーの言葉に、シャオファは返す言葉がない。頭ではジンノーの言葉が正しいとわかっていても、心では到底受けいられない。
シャオファはベッドの上で熱にあえぐノオラの姿を見た。もはや意識も無く、言葉をかわすこともできない。彼女を……あるいは彼女のお腹の子を殺す? そんなことができるわけがない!
そう、シャオファの心は叫ぶが、しかし他にどうすればよいのかもわからない。黙って見過ごせば二人ともの命が失われる。それもまた目の前につきつけられた現実だ。ならばどちらかだけでも命を救うべきなのか……?
「う、うう……」
背反する思いに縛られ身動き一つ取れなくなったシャオファの身体に、吐き戻したくなるほどの嫌悪感が胸にこみあげてくる。
ジンノーやゴラルドが事情を隠し、シャオファを遠ざけようとした理由がこれだ。何の罪もない者の命を奪う決断を、ただの少女が背負えるわけがない。もしその場に直面すれば、辛く苦しい思いをすることは確実だったからだ。
外で眠らされている彼女の夫についても同様であろう。妻か、子か、どちらを失うにしてもその場に居合わせてしまえば苦悩を背負うことは避けられない。それゆえに、ジンノーは鍼を用いて彼の意識を奪ったのだ。
「ならばジンノー様はどちらの――ノオラさんか、お腹の子供か、どちらの命を救われるおつもりなのですか?」
「どちらを助けるか、か。――どちらがいいか、おまえは選べるか?」
問い返すジンノーの問いは残酷であった。片方を救うということは片方を殺すということだ。とてもうかつには答えられるものではない。
シャオファは顔を伏せ、首を振る。
「……私では選べません」
「そうだな。そんなこと誰も選べんだろうし。選びたくもないだろうよ」
だが、とジンノーは頭(かぶり)を振る。
「儂は選ばねばならん。それが儂の役目だからな」
「お役目、ですか?」
「誰を生かして誰を殺すか。そんなことを選択していい人間というのは本来はどこにもおらん。……おらんのだが、現実としてそれをやらねばならん時というのがある。やらねばならんのなら、せめて少しの『方便』というものを使ってやるしかあるまいよ」
指折り数えながら『方便』を挙げていく。
「一番マシなのは『僧侶』が選ぶことであるな。神に仕える者の選択であれば、それは神意の代弁だ……とでも言い訳ができる。たとえ納得はできずとも、神の思し召しだとすれば死を悼む心に添うことはできようよ」
だが今この村には僧侶はいない。
「次に適当なのは『医者』か。医者の知見をもって、どの命を生かそうとするのがもっとも確実であるかを計るというのも一つの手であるな」
しかしやはり……この村には医者はいない。
「あとはまあ……『流れ者』だな。神の意思がなくとも、医の知識がなくとも、ただ選ぶことはできる。選んだのならあとは石でも投げて村から追い出せばそれで仕舞いだ。村の者は誰一人傷つかずに済む。――つまりこれが儂の役目よ」
僧侶でもなく、医師でもなく、ただの流れ者として彼は誰を救うのかを選ぶという。その結果、人殺しとして村を追われる事も覚悟の上でだ。
ふ、と短く息を吐き。ジンノーは眼前に手を翳した。その指先には色濃い死の気配を纏う。
「……っ。手を、下されるのですか?」
こみ上げてくる苦い感情に顔を歪ませてシャオファは問う。
「ああ。赤子の体力が保つギリギリを計っておったが、今が頃合と見た!」
『処置』が早すぎれば命を奪われた後も身体に残留する魔力が害悪となる。そのため反発で消費される魔力と反発によって消耗されていく生命力、その天秤が傾く寸前をジンノーは計っていた。そしてその機は今であると……殺すのがもっとも確実であると確信した!
ならばジンノーが殺すのはやはり――。
「殺すのは母……ノオラのほうだ!」
掲げた指先が作る形は拳打でも掌底でもない、指突だ。ノオラの身体の一点を突きその命を奪うのだ。
ジンノーの動きは的確かつ迅速である。動くと決めたからには迷いは一切無い。構えた手指が走る。
「待っ――」
いまだ迷いが捨てきれないシャオファはその動きを制止しかける。だがジンノーは待たない!
「ツァッ!」
短く吐いた息と共に突きこまれた指突は、過たずノオラの首筋に突き刺さる。それはいかなる拳法の妙技か、正確に突き込まれた指の一撃は血の一滴すら漏らすことなく……。
――その女の命を奪った。
完絶なる殺害。すなわちこれぞ『絶殺』である。
●
「終わったぞ」
戸を開け、家の外で待っていたゴラルドと老婆にジンノーは無感情に告げた。
仕方なきこととはいえ、目の前で起きた惨事にゴラルドも老婆も沈痛な顔を見せる。
「……ご苦労様でございます」
「フン。苦労などあるか」
面白くも無い、という風にジンノーは鼻を鳴らす。毒づく彼の態度には流石にわずかの反感の念を覚え、ゴラルドは眉根を寄せる。が、それを指摘することも筋違いだ。ジンノーは一人の人間の命を救うために、凶行に手を染めたのだから。
「――断ったのはノオラの命脈のほうだ」
簡潔に述べるジンノーに、母か子かどちらを生かすこと選ぶのかと気を揉んでいた二人は顔を見合わせた。
「では、お腹の赤子は……」
「今のところ母体からの影響は無い。急いで取り上げれば間に合おうぞ」
「よ、よし! それじゃあ私が手を尽くさせてもらうよ!」
腕をまくり、ジンノーと入れ替わるように老婆は家の中に入る。
「シャオファはまだ中で呆けておる。手伝わせるがよかろうよ」
老婆の背中にそう声をかけ、ジンノーはノオラの家に背を向けた。
「シャオファさんを立ち会わせたのは、やはり酷だったのではありませんか?」
「……あやつは人の命が奪われるということの愚かさを、十二分に知ってはいたが解ってはおらなんだ。それを解らせるにはあれくらいの療治が必要なのだ」
「何故そのようなことを今ここで……!」
「ちと、抜き差しならぬ事情というのがあってな。母子のことも大事であったが、シャオファのことも喫緊の課題であった。あやつめが自ら死の意味を知らねばならんかったのだ」
「お二方の事情を詮索するつもりはございませぬが……しかしそれにしても、親交のある人物が殺――いえ、死を賜る姿を見せられるというのは、あまりに無体ではないかと」
ゴラルドの言葉に、ジンノーは自嘲ぎみに笑う。
「そうよなぁ」
夜の冷えた空気、澄み切った空をふと眺め――拳を浅く握る。
「その埋め合わせについては、儂もまた『我が身』を賭けさせてもらうさ」
そう言ったジンノーの拳には細く光る一筋の糸が見えた。
●
それから先のことについては朧気な記憶しか無い。ジンノーがその拳でノオラの命を奪い、彼女の家から立ち去った後入れ替わるように入ってきたのは老婆だ。
ショックで放心し、へたり込むシャオファを彼女は一瞬だけ哀れんだ目で見て。即座にその頬を顔の両側 から挟んでつかみあげた。
「しっかりおし! ノオラのことは……残念だけど、まだ私らにはやるべきことが残ってるんだからね! 呆けている暇なんかないよ!」
老婆の言葉は強く、そして厳しい。
それは人生経験の差とでも言うべきか。辺境の地であれば出産はまさに命がけの難行だ。きっと彼女は多くのこうした悲劇を見てきたのかもしれない。しかしそれでも生まれ出でる命の尊さを知っていればこそ、産婆という職を全うできるのかもしれない。
(だけど、私は……)
シャオファはなかば放心状態のまま老婆に言われるまま作業を手伝ううちに、こと切れたノオラの身体から子を取り上げていた。それまでの逡巡や苦悩とは裏腹に、あっけないほどの手際であった。
「この子を抱いておいておくれ」
生れ落ちたまま、裸のままの赤子――その子供は女児であった――を預けられる。へその緒が切られた瞬間、その赤子は初めて産声を上げた。
赤子の産声とはこの世に生れ落ちたことを嘆く叫びなのだ、と厭世家はときに嘯く が、それは痛烈な皮肉としてシャオファの身に突き刺さった。
この子の産声を聞き、頬をゆるめる者はこの場には誰もいない。父は眠らされ、母は――死んでいる。赤子がそれを理解しているわけでもないだろうが、シャオファの耳にはその産声は虚しく母を呼ぶ悲嘆の叫びにしか聞こえなかった。
「あとのことは……ゴラルドに任せるしかないね」
ベッドの上に横たわり、青ざめてもはや血の気も見えないノオラの亡骸を見て老婆は沈痛げに呟く。一仕事を終えて冷静になれば、これから先のことを考えると心が痛むのは止められない。
泣き疲れて眠る赤子を毛布で包み、とりあえず今は別の場所に連れて行くしかないとそう考えて老婆とシャオファはノオラの家を後にしようとする。
その時であった!
「父親を起こして後は――エエッ!?」
言いかけて老婆は驚きに目を見張った。
「どうかされ……えっ!」
つられて振り向いたシャオファもまた驚きの声をあげる。
二人の視線の先にあるのはベッドの上のノオラ。もはや何の感情も見せないはずのその顔がわずかに動き、その目がカッと見開いたのだ。
「っ! 何か悪いモノでも憑いたのかい!」
命を失ったばかりの人の遺体に、あたりを漂う悪しき魂が入り込み動く屍人<リビングデッド>と化すことがある。野辺に晒された遺体ならまだしも、健全な人の営みが行われている村の中でそのようなことが起こることはごく稀だが、考えられない話ではない。
もしそうならばすぐにジンノーを呼ぶ必要があるが……。
「待ってください、少し様子が違います!」
じっとその姿に見入っていたシャオファは叫ぶ。実際に動く屍人を見たことはないが、伝承として聞いたことのある姿とは幾分様子が違う。
「ガ、ハッ! ハッ!」
ノオラは喉を押さえ、酸欠にあえぎ空気を求める。その姿は苦しげではあるが、それは同時に生命を求めあがく人間的である。これがもし動く屍人であれば、呼吸の必要などなく幽鬼のごとく立ち上がるのみだろう。
「い、息を吹き返したっていうのかい?」
驚きに顔をこわばらせ、老婆は腰を抜かしたようにへたりこむ。ノオラがジンノーの拳によって命を失ってからすでにかなりの時間が経つ。水に溺れるなどして一度心肺を停止させた人間がふとしたことで呼吸を取り戻すことはあるが、それにしても時間が経ちすぎだ。
「そんなことが有り得るんですか?」
「わ、わからないよ! アタシもこんなことは初めてさ!」
急激な事態に顔を見合わせ立ち尽くす二人の前。ノオラはゲホゲホと咳き込み続けたが、しばらくしてようやく呼吸を落ち着かせた。そしてゆっくりと顔をあげ……。
「ここは……」
その瞳にたしかな人間的理性の光をたたえ、完全に意識を取り戻した。
「ノ、ノオラなのかい? 本当に? 何か変なモノが憑いてるんじゃないだろうね?」
おそるおそる老婆は歩み寄りノオラの様子を確認するが、怪しいところは無さそうである。ノオラ自身もわけがわからないという表情であたりを見回すのみだ。
とにもかくにも事情がつかめない。混乱する頭を振って、シャオファは立ち上がった。
「私、ジンノー様を探してきます!」
奇跡とも思われたノオラの劇的な蘇生。ジンノーであれば何が起こったのかわかるかもしれない。今はジンノーに問いただすのが最善だろうとそう判断したのだ。
赤子を老婆に預け、シャオファは戸外へと駆け出した。
(続く)
貴方!もし貴方がサポートをしてくれるなら。得られたサポートは無益にせず、さらなる飛躍のために使うことをここにお約束します!