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イベントと行為、ニンゲンのぜんぶ


昔、銀行のウェブサイトのデザインをしたことがあった。さまざまな人生の節目を「ライフイベント」と名付け、それに合わせてローンを営業するという。

例えば結婚すれば住宅ローンを、子供が生まれれば学費ローンを、といった具合に、ライフイベントごとに提案する内容を変えるらしい。


【イベント発生条件】

  • ver.2.13以上にアップデートする

  • 集団行動にて、3回以上、上位8割に含まれるスコアを出す

  • 会社に所属する、もしくは年収を1円以上にする


イベントを催すと、様々な人が集まる。イベントには人を集める性質がある。あるいは人が集まるような催しをイベントと呼ぶらしい。

大抵の場合、イベント会場に入ると、適切な振る舞いを勝手に察知して遂行することになる。展示会場ならば置かれたオブジェクトを神妙な面持ちで注視したり、トークイベントならば座ってじっと始まるのを待機する。


気を抜くと、人はすぐに「本当の自分」の話をしようとする。私には、それがよくわからない。

酔っ払って失敗した日のことを弄られながら、「お酒が入った時に出るのが本当のあなただ」という説法を頂く。酔っ払ってるのも私だし、酔っ払ってない私も私だなぁとしか思わない。

「本当の自分」がどこかにあると信じてやまない人は、実は自分の主体性について大して真剣に考えていない人なんじゃないかと思うことがある。なぜなら、私は常に私として行為しているはずなのに、そこにいるはずの自分自身と思えてしまう何かの存在を無視しているように感じるからだ。

体裁に乗っ取られた身体や行為の連続体として生きていたいか、体裁を繕うことをメタに遊んで生きていきたいか、とあえて二極化するならば、私は後者なんだろうなとぼんやり思う。

「本当の私」らしき何かの言語化(という名の謎解き)は楽しいんだけどね。謎解きは楽しい。

結局のところ、自分探しの旅という言葉の意味するところは、誰も自分を知らない場所で自分が何を行為するかという自問自答の中に「本当の私」らしき何かをでっち上げる儀式なのだし、結局のところ、私らしさというものの言語化の産物は「私」なるものの真相ではなく、「火属性」みたいな粗悪なカテゴライズと粗悪なネーミングに過ぎないとも思う。

そして、自らを社会的な言葉で語ることで周辺へ反響させて、現在地らしき地点を推し量るような行為も、やはり「本当の私」を示唆しない。


以上のように長ったらしく言葉遊びをするのは私の悪癖なのかもしれない。
それをわざわざ言語化することは、メタなことを話すイベントの発生条件なのかもしれない。


シチュエーション・コメディという形式は、とても不思議だと思う。シチュエーションを顕在化させると、そこに登場する人物は既知の行動様式を反映する。会社では敬語を使う、とか、そういう些細でどうでもいい話。
シットコムの多くは、シチュエーションに取り込まれた人物が、本来押し付けられているはずの行動様式から逸脱する場面を笑うように設計されている。

人の逸脱を笑うことをイジメだと言う人が言うけれど、もしかしたら設計されたシチュエーションの中で人が逸脱することを笑えてしまう風土の中に、逸脱の方法を考えるためのエッセンスを読めるのかもしれないという暴論を言いたくなる。


あるとき、会社員をしていた私は、たくさん仕事を休んでいた。
正規雇用であれ、業務って、休もうと思えば休めるものらしい。そして、仮病もサボりもこれくらいのスケールならば犯罪じゃないらしい。
会社の休み方を知らない・忘れた同期や先輩(!!)に、何度か会社の休み方を尋ねられた。
しかし会社を休むというイベントの発生条件は、会社に「休みます」と報告する手続きではない。ただ会社に行かないという選択肢を選ぶだけで良い。


「自由な振る舞い」というのは、あるのだろうか。

起床イベントのあと身支度イベントがあり、ドアを開けて移動するイベントを遂行する。喫茶店の客になるイベントの後はバイトイベントがあり、そのあと帰宅イベント、就寝準備イベントを経て睡眠イベントへと移行する。「時差のある場所に住む友人が1人以上いる」あるいは「生活リズムの異なる友人が1人以上いる」という条件を達成している場合に限り、夜中に電話で叩き起こされるイベントが低確率で発生する。

自由な振る舞いについて考えるイベントは、若干メタな視点を持たなければならない。イベントに没入している場合の多くは、イベントそのものについて考えることができないからだ。

母は、私を育てるときに「選択肢は多いほうがいいと思った」と言う。イベント発生時に現れる選択肢の数を増やせるような教育方針にしていたら、隠しコマンドのような選択肢を探しまくる性質を持った人間に育った。


TPOという言葉がある。調べてみると、Time、Place、Occasionの頭文字らしい。

イベントと私が呼んでみるのは、時間・場所・機会の変化に伴い、人の行為の性質を区切れる単位のことである。


イベントを主催する私は、イベンターである。私の催すイベントは、やはり来場者の振る舞いを規定する。それは人の自由な振る舞いを奪うことであると言うこともできるだろう。

だけど、楽しいイベントをつくる、そのイベントを楽しいと思ってもらえる、ということが成立するのを目指すことは、みんなが大好きな健全さを持っている。


好き勝手な場所に住み、好き勝手な場所に行き、好き勝手に人とつるむ。好き勝手な方法で日銭を稼ぎ、好き勝手に使う。好き勝手な格好をして、好き勝手なことを喋る。

例えば上記のようなことをみんなが求めはじめたら、改めて現実的な格差に直面する。コミュ力が高いやつ、頭がいいやつ、金持ちなやつ、顔がいいやつ、ユーモアのセンスがあるやつ。

そんなヒエラルキーはくそったれだから、自分で自分のためのイベントを作る。職業は自分、俺か俺以外か!と言うローランドみたいな。

わたし的いいイベントの基準は、それに参加した人もイベントをやってみたくなることだなぁとぼんやり思う。だから、「私にはできないなぁ」と思われるとちょっと悲しい。

いい本を読むと本を書きたくなる、いい作品を見ると作品を作りたくなる。子供の頃に好き勝手な夢を抱いたのと同じこと。

好き勝手にイベントを作って、好き勝手なルールやタイムスケジュールを組む。人のイベントに出入りするのが好きなやつを歓迎したりしなかったりする。

イベントを主催することは、ちょっとだけ自由だなと思う。だから、なんか面白そうなことを企画しているらしい、だけど何やってるか全然わからない近所のおばちゃんみたいになるんだろうな。

そうしたら、登下校する子供たちが「変なおばちゃんが玄関先でタバコを吸っているのを目撃するイベント」が発生して、無視するか話しかけるか友達と馬鹿にするかみたいな選択肢が生まれるんだろうか。

そしてそのイベントを、私はちょっといいなって思う。

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