宮森みどり、2歳児になります|心からニコニコしてハッピーに生きていく
一昨年名乗り始めた作家名、「宮森みどり」。そういえば作家業も一昨年から本格的に始まったから、なんだか感慨深い。名前の由来があるわけでもなく、Googleで検索する限り同姓同名がいないという理由だけで、深酒した夜にすべてのSNSアカウントの名前を「宮森みどり」に変更した夜があっただけのこと。それから、4文字の漢字は野暮ったく感じてそうじゃない名前にしただけ。
作家名をつけてから1年くらいは「宮森さん」呼びや「宮森みどりです」という名乗り方に違和感や馴染のなさを覚えていた私も、流石に慣れてきた。今では「宮森先輩〜」とか呼ばれて嬉しくてヘラヘラして、陽気に「お世話になっております、宮森です」ってメールを打つ。私は去年より、宮森みどりになってきた。
よく行く居酒屋でもバーでも「みどりちゃん」と呼ばれる。下の名前で呼ばれても、本名じゃないから照れくささもない。「はいはいみどりです〜」って感じで普段通りの生活を営める。口説きたいだけの出会ったばかりの人が「みどり」って呼んでくるときだけ、嘘をついている罪悪感が他人事感と同時に襲ってくる。それ以外のときは、宮森さん、みどりさんと呼ばれることに違和感はない。それどころか、どこか心地よさを覚えるのも確かだ。
この一年、自分で思うだけじゃなくて、人から言われるくらいには変わっていると思う。2歳児になる日が近い今、総括としてここに書き記す。
人を信頼したい!と思うようになった。
元カレ
一年以上前に付き合っていた人。それは私が世界で最初に信頼した恋人であり、私史上一番最悪な一面をぶつけてしまった人。
私が一方的に関係の解消を願ってそうしてしまったけど、その人とは今でもまだご飯に行って話すし、今もまだ作品の発表を手伝ってもらっている。
有言実行で、素直な言葉を吐く、浮気をしない人。再び恋愛をしてみてもいいなぁと思い始めたとき、そんな人が他にいるのかと思うくらいには大好きだった人。もう戻れないと頭ではわかっていても、何度も泣いてしまった相手。その人が酔っ払って電話を掛けてくるたびにあの頃の気持を思い返し、先輩を捕まえて愚痴を言いながら泣いた相手。恋人関係を解消してからも、私にしては長く一緒に過ごしたある種の理解者としてご飯に行っては、彼には当たり前に私への気持ちはないのだと落ち込んでいた相手。初めて「この人は私を大事に考えてくれている」と信頼した他人。
もちろん、元カレを信頼しているのは今も変わらないけど、私はもっと他の人のことも信頼してみたい気分になった。
今、作品の制作や発表をメインで手伝ってくれている人
その人とは、私が人をまるっきり信用してなかった頃に出会った。演劇の制作などをやっているからいつでも手が必要なときは頼ってほしいと言ってもらって、最初は「制作って何?」と思って気にもしてなかった。
劇団をやってる師匠に"制作"のお仕事の内容を教えてもらい、「すぐ捕まえて話をしたほうがいい」と言われて改めてコンタクトを取り、今では私の作品制作を手伝ってもらってる。くだらないアイデアを思いついては連絡して、書類を面倒見てもらって、アウトプットについて振り返って熱い話をする人。
最初お願いすることにしたとき、先に挙げた元カレに会わせて信頼できる人かを聞こうと思った。元カレは人を見る目も、人から信頼される人望もあったからだ。なにより、私より多くの人に出会い、数々の現場を担ってきた人だった。
顔合わせの日、三人が向かった先は居酒屋だった。酔っ払ったし何件もはしご酒をして、さらにはビリヤードもして、ヘロヘロで帰ったその日には聞けなかったけど、その後聞いてみたら「いい人なんじゃない」と元カレも言っていたから、色々相談したり頼ってみることにした。
その人は連絡の返事も多いし遅刻もあるし、本当に信用していいかわたしはずっと疑問だった。だけど作品の相談や発表を続けていくうちに、「あ、この人は私自身のことも、私の作品のことも楽しんでくれてる人なんだ」とわかってきた。その人が制作やプロデュースを担う案件を絞っていくときも、いつも誠実な説明と言葉と共にこれからも手伝わせてほしいという言葉を私に伝えてくれた。
この人を信用して、作品の発想だけじゃなくてその要因となった私的な出来事を伝えるようになっていった。今日、これを書いている今思うけど、私はこの人を信用してるんだと思う。
期待の中に、「こうしてくれるだろう」「こう捉えてくれたらいいな」という願望を込めながら人を頼ることを、元カレの力を借りながらも再びすることができた。ありがとう、マジで。
程なくして、元カレとこの人と一緒に「宮森みどり+」という団体を立ち上げた。それはある種、三人で、私が名乗ってるだけの「宮森みどり」という屋号を作っていこうという、私にとっては盟約みたいなものだった。他の二人がどう思っているかはさておき。
そんなことがありながら、いや、そんなことのおかげで、私は私の個人的な人間関係の中でも、人を信用してみたいという慾望がムクムクと膨れていった。
笑いたいときに笑いたい
最近、”無防備に笑う"という経験をした。中野の飲み屋で出会った男の人と、日を改めて二人で飲みに行った日のこと。
二人であったのは初めての日、誰がどう考えてもいい雰囲気になったとき、おでこを合わせて、キスをするでもなく笑い合った。顔が近すぎてよく顔も見えないだろうと思って、"可愛いと思われたい"という思いを捨てて笑ってみた。
おでこを離して最初にその相手が言ったのは、「なんか嬉しそうだね」という言葉だった。
私が最後に人の言葉じゃなくて態度を見たのっていつだろう。その人は、すごく自然にそうやっていた。そんなところが好きだなぁと思った。
それ以降、いろんなところで「表情が豊かになったね」と言われる。使ったことのない表情筋が動くから、高校生の頃無理やり笑って踊ったチアリーディング以来に、顔が筋肉痛になった。その人とは別に付き合い始めたわけでもないけど、なんだかその人の前でも、それ以外のシチュエーションでも無防備な顔をしてしまうことが増えた気がする。
自分がどんな顔をしているかわからないという恐怖よりも、素直な思いが現れてしまう表情を管理せずに人に見せてみたい、自己開示してみたいと感じている。
「笑わなきゃいけない」ときに笑うのをやめようと努めていたら、自分の笑顔に嘘が減った気がする。笑いたいときに、笑いたいように笑う。そんなシンプルなことができなかったことに、疑問がふつふつ湧いている。
総括:素直に正直に生きてみたい
人を信じてみたい、もっと素直に笑ってみたい、自分に嘘なく生きてみたい。些細な事かもしれないことが積み重なって私を抑圧してくる中で、自分自身のリアクションを大事にしたい。この欲望は、欲しがりすぎとは言えない気がする。
友好関係を壊さないために笑う時間を減らす。その代わり、笑いたいときに笑う。好きでもない相手のために共感することを辞める。その代わり、本当に共感することに共感する。そんなことを続けていたら、なんだか私という輪郭が見えてきた。私が嫌なこと、私が善しと思うこと、わたしが興味あることを、臆病にならずに自己開示する。そんな時間が増えて、私は今すごく楽しくて、幸せだ。
「宮森みどり」という名前に誓った"素直に、正直に生きてみたい"という思いが少し叶いつつある。たった2年でこんなに変わってしまうなら、来年は、再来年は、その先はどうなっていけるんだろう。私は私の変化が気になって、楽しみで仕方ない。もっともっと楽しく、もっともっと素直に、もっともっとニッコニコにハッピーに、変わっていけますように。