柴野惣(シバノソウ)初監督作品、『世界が終わったら』を観にいく
※注意 このnoteを読む際は、作品のネタバレに注意してください。ラストシーンや核心に触れる記述はありませんが、事前情報について、各々で判断していただければと思います
「推し」という言葉は、語感が強すぎるというか、個人的な好みであまり使ってこなかったのですが、唯一「推し」と言ってもいいかな? というアーティストが一人います。シバノソウです。
(4年前に書いた記事です)
某テレビ雑誌の企画で知った彼女も、もう大学生。当時は中学生だったのに……。
サークル活動として映画を撮っていたのはSNSを通じて知ってはいたのですが、4月1日にその映画の上映と、トークショーをセットにしたイベントがあるとの情報をキャッチ。自分が鑑賞するチャンスは無いかなと思っていたので、これは行くしかないでしょ~! 今回の記事は当日のミニレポートになります。果たして、新人・柴野惣監督のデビュー作はいかに……。
映画本編
当日は気持ちの良い晴天でした。ちょっと余談ですが、ソウちゃん、めちゃくちゃ「晴れ女」なのです。彼女のライブに行くようになって8年くらいになりますが、そのイベントのほとんどが、不思議とめちゃくちゃいい天気になります。今回もちゃんと晴れました。
監督の「ニーハオ」という、なぜか中国語の挨拶からはじまり、作成の背景などを少々解説をしてから、上映開始。
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『世界が終わったら』は、監督自身の同名の曲を題材にした映画でしたが、マジで、歌詞の世界をそのまま、映像にしたような作品でした。
舞台は夏休みの近い高校。主人公のえりは、平坦な高校生活に上手く折り合いをつけられず、苛立ちを抑えられずに過ごすなか、図書室で、かつてバンドをしていたという、福島先輩に出会う。
えりは、自分の内面にあるものをさらけ出せずに苦悩し、感情をたぎらせるが、えりと対をなすように、福島先輩はどこか冷ややかだ。バンドという形で内面にあるものを表現し、それを止めてしまった彼には、表現したことで生まれた苦悩も知っているのだろうが、えりはそれに気付くことが出来ない。
対照的な二人の耳元の、えりのAirPodsと、福島先輩のヘッドホンは、それぞれ着脱するシーンが繰り返し強調され、「内」と「外」の境界線として、この映画を象徴している。
目の前に広がる世界は、退屈に色褪せ、厭世的で感傷的になってしまうこともある。それでも、自分の内側に渦巻くものを信じて、世界と対峙していく。不器用なぶつかり方であったとしても。
そうしたシバノソウ楽曲の歌詞にも感じていた、「情念」というか、「気持ちの強さ」のようなものが、立体的に描かれていました。
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トークショー
上映後は休憩をはさんで、佐々木敦氏を迎えての、トークショーが行われました。
撮影期間中に、首を切るという(誰かを「解雇した」という意味ではなく、本当に首の筋肉を切ったそうだ……)ハプニングや、カットの繋がり等の制作における苦悩、オマージュの入れ方(特に庵野秀明作品について)、「この作品は、女版『グミ・チョコ』(大槻ケンヂの小説『グミ・チョコレート・パイン』)なのではないか」という監督自身による分析など、短い時間ながらも、話題は多岐にわたりました。
柴野・佐々木両氏と観客で作品を共有し、多角的に内容を掘り下げるイベント全体の雰囲気に、久々に「サブカル」というものを感じた気がします。
トークショー内で一番印象的だったのが、この作品は、監督自身の実体験にかなり近い内容であると明かしたくだりでした。
作中の福島先輩のモデルとなった人物も実在し、それもゲストの佐々木氏と、遠くない関係性で音楽活動を継続しているという(イベント内では、個人名は伏せていたが、某バンドの実名は挙げていた)。
モデルになった男性への当時の感情と、出来上がった作品との繋がりを語る柴野監督の様子を見て、先述した今回の映画に感じた「情念」にも、合点がいくようなものがあったし、企画倒れや頓挫することが多いという学生映画において、完成にこぎつけた力強さも、ひしひしと感じました。
2作目はあるのか? 今回の作品は、彼女の今後の創作にどう繋がりを見せるのか? ファンの一人として、目の離せない要素が増えました。
ひっそりとそのドラマを観客席から見つめつつ、書けそうな事があったら、出来る範囲で、またこのnoteにしたためようかなと思います。
監督自身による当日のnote