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【掌編小説】マレーグマ

小脇に抱えたスケッチブックがバサッと地面に落ち、軽やかな風がページをめくった。白黒で描かれたシロサイの絵が、明るい日差しに照らされ、画用紙の白が眩しくてぎゅっと目をつぶった。自己嫌悪の溜息をつきながらしゃがむと、紺色のカチッとしたシルエットが目に入った。画用紙の白のせいだろうか。暗いスーツ姿がひと際目立った。

動物園には似合わない高そうなスーツ。若手エリートサラリーマンといった風貌だ。僕と同じくらいだろうか、30前後であろうこの男は、赤茶色の柵に両肘を乗せ、頬杖をつきながらぼんやりマレーグマを眺めている。このマレーグマは数か月前、別の動物園から新しくここに来たらしい。初めてこの動物園に来る奇妙な生き物を見ようと、当時はコアな来園者が訪れたみたいだ。一人ぼっちで寂しいのではないかと思いきや、木製の遊具やタイヤで遊ぶのが好きなようで、意外とこの環境に馴染んでいる。来月辺り、もう一頭仲間が増えるらしいので、マレーグマのエリア自体は広々としている。

マレーグマとスーツ男の間には、深めの谷がある。マレーグマが転げ落ちても、元の場所に這い上がって来れるくらいの勾配だが、ちょっと大変そうだ。おそらく、危険防止用のものであろう。昨日と同じ人間が訪れている事を理解しているのか、これ以上スーツ男に近づくと、谷に転がり落ちてしまうギリギリの所まで距離を詰めている。そして、あぐらをかいたり、ゴロゴロしたり、手をこまねいたりしている。まるで、どこかのおじさんだ。全身真っ黒のマレーグマの首元にある白い三日月模様と、スーツ男の首元から見えるワイシャツの襟が、どこか似ているようで少し滑稽だ。

(今日もいる・・・昨日もいたよな・・・)

極力不自然さを感じさせないよう注意を払いながら、スーツ男に近づいてみる。僕は、スーツ男と同じように、柵に両肘を乗せ頬杖をついてみた。全くこちらを気にも留めない様子だ。二人の男に見つめられながら、マレーグマは、ぐでぇーんと寝そべっている。思い切って、話しかけてみた。

「マレーグマ可愛いですよね。僕も好きなんです」

ほんの一瞬、ギョッとした表情でスーツ男はこちらを見たが、うっすら微笑んだ。

「何だろう・・・どんな時でも、のほほんと能天気な感じが癒しというか。こっちの事情なんかお構いなしでマイペースじゃないですか」

と、言うと

「そうですね、良い気なもんですよね」

と小さく笑い、再びマレーグマのほうに目をやる姿が、パリッとしたスーツのせいで哀しそうに見えた。二人の男が会話を始めた事を不審に思ったのだろうか、座り込んで右足を高く上げていたマレーグマは、そのままの姿勢で僕とスーツ男の間を、視線で左右に掻き回している。

「会社なんて嫌になったら辞めちゃって良いと思いますよ」

思わずぽんっと言葉を発した直後、自分が無責任な事を言ってしまっている事に気付いてハッとした。手をこまねいているマレーグマの姿が、「こっちにおいで。仲間になろうよ」と言っているように見えなくもない。

ははっ、とスーツ男は笑った。遠くから見ると分からなかったが、紺色のスーツには細い灰色のストライプ模様が入っていた。会社に行こうか行くまいか迷う彼の気持ちを、ノーネクタイのワイシャツから感じとる事ができた。

「ねえ、ママァ~。ソフトクリィ~ム~」

二人が振り向くと、母の手を引っ張る子供の姿が見えた。

「突然話しかけてしまってすみませんでした」

そう言葉を残し、僕は西門に向かって歩き始めた。

気になって振り向くと、東門方向へ向かうスーツ男の後ろ姿が見えた。

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