
正木ゆう子『水晶体』 好きな句
赤き紐春の神社に失くしけり
失くしたのが赤き紐というのがなによりいいと思った。春の神社といういいかたも好きだ。こういう負担のないやさしい句はうれしい。
半袖の二人のまへの芝生かな
「二人」が入った句は基本的に好きなのだが、この二人はまたよい。語順通りに、半袖の二人をへてその前の芝生に視線が向いたとき、第三者として二人と一緒に芝生を見られているということがうれしい。きっとこの二人は若い。
秋風の街に珈琲すこし残し
珈琲を残す量によっては珈琲がまずかったのかと思ってしまうが、残す量が少しのこの句ではおいしいのかまずいのか。香り高いという印象は受ける。作者は珈琲を少し残してきて秋風の街を歩きながら何を思っているのだろう。丸善に檸檬を置いてきた人を思い出した。
自転車を乗り捨ててより大枯野
映画のワンシーンのようでドラマのある句。いろいろと想像が膨らむが、作者は沖の方なので、私は〈火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ/能村登四郎〉の誰か過ぎなかったバージョンを想起した。
寒いねと彼は煙草に火を点ける
この句を知ってからうかつに口語で詠めなくなった。寒い空間に二人のあたたかさが際立つ。
たんぽぽ咲きティッシュペーパーつぎつぎ湧く
日常を楽しくとらえている。明るい。
雑踏のはるかより彼来る立夏
彼は夏のような人かもしれない。雑踏のはるかからこっちへ向かってくる様子が眩しい。「はるか」というのはこの作者の大切な言葉だと思う。この次の句は〈悠といふ我が名欅の芽吹くかな〉で、第二句集は『悠 HARUKA』だ。
息触れて初夢ふたつ響きあふ
正月からあっつい。
水に皿沈めて眠る春の風邪
水と春の親和性を強く感じる。
切株の小さき夏に座りけり
詩の作り方としては常套だが、小さきというのに嬉しさのようなものを感じた。
片目してラムネの玉を訝しむ
泳ぎゆく君に藻のごとくからむ
二句ともかわいい。こういう句を、女性が詠んだからこそいいと思いますと言うのはジェンダー警察の取り締まりにあいそうだが、実際そう思うので仕方ない。
螢狩素顔でゆくは危ふかり
宮本輝の『螢川』を思い出した。いい小説だ。この句とはあまり関係ない。
いくたびも視線を沖へかき氷
かき氷をかき込む人もいるが、私には冷たくてとうていできない。ゆっくりと食べているとなんだか間がもたず、きょろきょろしたりする。視線を沖へというのはそれの理想的なものだと思う。沖は作者の所属した結社で、作者の思いを私は知らないが、感じさせられる。
滝を見る水晶体をたれも持ち
表題句。句集全体に水のイメージや透明なイメージが散りばめられているのでこの句は句集全体を表象するものということか。句集が作品として纏められている(編年体でないぶんそれを強く感じる)ことに、作者の姿勢が窺える。
いつの生か鯨でありし寂しかりし
有名な句。叙情的だが、そうか鯨は寂しいのかと思わされる。あたり前の叙情でないというのがいいのだろう。
あたためし牛乳に膜山眠る
取り合わせの理想形のように思う。