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コミュ障の私が情報発信をはじめて2ヶ月でメンタル回復、これまでとこれからのこと
ミヤコです!
情報発信を本格的に始めて、2ヶ月が経ちました。
これまでやったことのなかったことに挑戦する日々で、
「私にはできないよ」と怖がっていたことに取り組むうちに
「私にもできる」に変わっていくのが面白いと感じられるようになりました。
ここから少し重めの話になりますが、私の話をさせていただきます。
情報発信を始める前、個人的に挫折が重なっていた時期で、メンタルをやられていました。
就職活動をしてやっと始めた仕事も、3ヶ月で退職してしまい、
しかも「適応障害」という診断名つきでした。
一度メンタルが徹底的に落ちてからはとにかく、
「自分のコンフォートゾーンから出たくない」
という気持ちに支配されていました。
いまでこそ、活動的に動けるようになりましたが、実は今年の5月中旬に、メンタル病んで仕事をやめて結構どん底の状態でした😭
— ミヤコ@日本語を教える作家 (@miyakojpt) July 24, 2024
当時は「ネガティブ思考」がどうしても断ち切れず、いままでどうやって前向きに考えてたかもわからないくらい。…
それでも
「このまま終わりたくない」
「せっかく仕事をやめて時間ができた今、やりたかったこと全部挑戦したい!」
という気持ちで無我夢中で行動してきました。
その結果、この2ヶ月でメンタル状態がかなり回復し
「もう当時の眠れない、食べれない、の状態までは落ちないだろう」
と確信がもてるようになりました。
「上手くいかなかったらどうしよう」という発想から
「いま上手くできなくても、目の前のことを一生懸命やっていれば必ずできるようになる」と前向きに考えられるようになりました。
もともとここ最近メンタルがここまで落ちる前は、
「迷ったらやってみる」という感じで
なんでも飛び込んでみる20代を過ごしていました。
この2ヶ月行動し続けることで、その感覚を取り戻し
「もっともっと知らない世界に飛び込みたい」
「成長して見える世界を変えたい」
というマインドセットになってきています^^
👉情報発信を始める前
・知り合い以外の人と会うのが怖く、基本的に家に引き篭もる
・オンライン日本語教師をしていたが、新たな学生を受け入れるのも怖く、挑戦ができない。既存の学生にも飽きられるのが怖い
・「自分がどうしていきたいか」がわからず、何となく次の道を選んではすぐ挫折する
・毎晩のおやつがやめられず、どんどん太る
・「仕事をやめて、かといって次のプランもない」状態なので、親戚との集まりに参加したくない
👉情報発信を始めて2ヶ月後の今
・「やってみて失敗するのが怖い」から「挑戦しないで現状維持する方が怖い」に発想がかわる
・オンライン日本語教師の仕事も挑戦を繰り返せるようになり、新規学生受け入れ成功 & 既存の学生との関係性もよくなった
・「オンライン日本語教師」に興味がある日本人の方と接するようになり、「自分の経験が誰かの役に立つ」と自信をとりもどす
・物事を決める基準が「保守」「受け身」ではなく「成長できるか」になって、明るい気持ちで朝起きれる
・暴飲暴食がなくなり、栄養バランスを考えて食べられるようになる
正直、数ヶ月前の状態だと朝起きてから寝るまで、「いつまでこの悪夢が続くのだろう」という気持ちでいました。
それがいまは「今日はどんな挑戦ができるかな」と、自分の人生を取り戻した感じです。
自分で言いますが、私はかなりのコミュ障な性格です。
元々の私の性格は「臆病」「引っ込み思案」で、どちらかというと人と話すのが苦手です。
特に初対面の人にどう接したら良いのかわからない方です。
グループ活動やSNSも苦手意識があり、観察するばかりでなかなか輪に入れないのです。
それにも関わらず、今私は見ず知らずの人にオンラインで日本語を教える仕事をしています。
そして、その経験を発信することも始め、初対面の方の相談にのるようになりました。
根本的な性格は簡単には変わりませんが、「人と出会おう」「自分の世界を広げよう」と行動するうちに、人生が少しずつ変わってきました。
辛いときに、歯を食いしばって行動し続けたことで、見捨てずに支えてくれた人たちのおかげで、いまの私があります。
今回は、もっと私のことを知ってもらえればと思い、生まれてからいままでの約30年間の自分の人生を振り返ります。
最後までお読みいただければ嬉しいです。
「自分の感情をあまり出さない」子供時代
![](https://assets.st-note.com/img/1722121830327-qepR2LMa5e.png?width=1200)
1994年9月6日、長女として生まれた私の性格は「おとなしい」「用心深い」「1人でよく考えている」「でも好奇心旺盛」こんな感じでした。
幼稚園のときから「人のことを観察する」子で、友達と遊ぶというよりは周囲の状況を見ていたようです ^^ ;
子供らしくないですよね〜。
小さい頃からあまり人前で喜怒哀楽を表現しない方で、目の前のことに興味をもつととにかく「目がキラキラして静かに熱中している」子供だったそうです。
当時母は「この子はちゃんと楽しんでいるのだろうか?」と心配したそうです。
私の母は根っからの明るい性格で、人と人を繋げるのが得意な人です。
親戚の集まりでは「母がいないとまとまらない」と言われるほどの引っ張りだこの母。
一方、私はそれを端の方に座ってみているような子供でした。
幼稚園では、自分が友達と関わることはなくても、周りの子供たちの様子には興味があり、家に帰ると母にその日の出来事を報告していました。
幼稚園で唯一「仲良し」といえる3人組の友達グループができましたが、あるとき「ミヤコちゃん以外の2人の方が仲良しなんだよ」と言われたことがきっかけで、グループでの関わりに苦手意識が芽生えました。
その後小学校、中学校、高校と進学しても、人間関係では受け身で、休み時間は勉強や読書をして過ごすような学生時代でした。
クラスでは「静かで目立たない真面目なキャラ」として過ごしていました。
高校で本音で話せる友達が数名できたものの、その子たちにさえも、自分の気持ちや考えを言葉にして伝えることに難しさを感じていました。
当時は自分が伝えないと、自分のことを知ってもらえないのは当たり前、ということになかなか気づけませんでした。
「正直な自分を出してしまって、拒絶されたり、誰かを逆に傷つけるのが怖い」「それなら人の話をニコニコ聞いていよう」と思っていました。
人一倍臆病で、人が何気なく放った言葉に傷つくことが多々あったので「傷つかないように」と言うことを最優先にして生きてきました。
学校ではそんな感じで、ニコニコはしているけど、本音を言わない、何考えてるかわからないような子だったと思います。
幸い、母にだけは自分の気持ちを正直に話すことができたので、学校から帰って母に毎日怒涛のように1日の出来事を話す日々でした。
母と私の表に出ている性格は真反対ですが、母は私の話に興味を持って聞いてくれたので、救われていました。
そんな感じで、かなり臆病な性格を引きずってきた10代でした。
傷つかないようにということだけを優先して生きていました。
家族と数少ない友達と言う本当に狭い世界の中で生きていました。
そんな私に転機が現れたのは、大学生の時です。
大学時代の転機「教員になる前にどんどん行動する!」
大学生になると、無理に友達を作らなくても必要な授業に参加して勉強さえしていれば良い環境に変わりました。
それまでの「クラスの中の友達と仲良くしなければいけないもの」という人間関係に対する謎のプレッシャーが和らぎました。
子どもが好きだったので、自然と小学校の先生になりたいと考え教育学部に進みました。
真面目な性格から、幼稚園から高校までの教員免許を取るために毎日勉強に励んでいました。
人と話すこと、仲良くすることが義務ではなくなった瞬間、心が軽くなりました。
それまでの正反対の、勉強以外の時間は自由にやりたいことを探す日々を送りはじめました。
当時大学の授業を受けているとよく「教員は社会人経験がなく、世間知らずと言われる」ということを聞きました。
「教師になるのだったら、働き始める前にできるだけ行動して、世間のことを知っている教員になるぞ!」と素直で単純な私は、モチベーションが湧いていました。
当時は実家広島から、東広島にある大学まで片道1時間30分かけて電車と自転車で通っていました。
大学の授業以外の時間はできるだけいろいろ経験しておこうと思い、アルバイトしたり留学したり、思いつく限りの様々な経験をしました。
「大学卒業までしか時間がない」と期限があったことで、それまでの自分の人生とは考えられないくらい行動的に動きました。
以下は私が大学生の頃に取り組んでいたことです。
当時のアルバイト先
・特別支援学校併設の養護施設での子供達への間接介助のアルバイト
・個人指導の塾のアルバイト
・家庭教師のアルバイト
・大学生協でのトラベルセンターでのアルバイト
・駅前のパン屋さんでのアルバイト
・ベネッセでの接客のアルバイト
・留学生の生活立ち上げサポーター
当時の海外経験
・海外企業訪問のシンガポール(1週間)
・ハワイでの語学学校(3週間)+1週間の滞在
・イギリスでの語学学校(2週間)+ヨーロッパ周遊バス旅行(2週間)
・アメリカのミネソタでの交換留学(1年)
・台湾での短期留学(3週間)
その他の取り組み
・毎月地元の小学校に留学生をゲストで招き「世界の遊びを体験しよう」というテーマで放課後子ども教室を開催する
・言語交換パートナーのプログラムに参加し、インドネシア人や中国人などの留学生と会話パートナーになる
・英会話カフェや国際交流ランチに毎週参加し、英語を話す
・保育士、英検準一級に独学で合格
シンガポールへの企業訪問ツアーに参加したことがきっかけで、海外に興味をもつようにもなりました。
東南アジアの熱気、若者のエネルギー、香辛料の匂いを嗅ぎ、一気に「世界には自分の知らないことが溢れている」「もっと自分の目で知らない世界を見てみたい」と思うようになりました。
それで空き時間にはせっせと英語の勉強をし、アルバイトでお金を貯めては長期休みに短期留学で海外に行くという生活を繰り返しました。
そうやって、自分の好奇心の赴くままにどんどん動いているうちに、不思議なことに人と話すことが苦ではなくなっていました。
いままで「何を話せば良いのだろう」「自分はどうするべきなのか?」と「やりたい」よりも「何が求められているのか」を考えることにがんじがらめになっていたのだと思います。
それが、自分の好奇心にしたがって行動していたことで
「きっと目の前のこの人は自分が経験したことのない経験をもっているに違いない」
「相手がどんな考え方をもっているのか知りたい」
と思うようになりました。
それに自分の中にも自ら動いていたことで「話すネタ」がいくらでもあったので、「何も話すことがない」ということが減りました。
そうやって動いているうちに自分が想像もしていなかったような機会が舞い込んでくることがありました。
例えば、学部生の時に1年間アメリカのミネソタ大学に交換留学したのですが、そのときに「トビタテ!留学JAPAN」という奨学金制度を利用しました。
アメリカの生活費は当時から高く、自分のためたアルバイト代だけでは賄えそうなかったので奨学金がもらえるかどうかはかなり大きなことでした。
どうしても合格したかったので、知り合いの方に頼み込んでつなげてもらい、その奨学金に合格した初対面の人にお願いして、自分の留学計画書を見てもらってアドバイスをもらいました。
アート教育についての留学計画書を書いていたのですが、少しでも計画書を面白くするために、美術館に足を運んで「アピールになるものはないか」と探しまくりました。
結果、一次書類が通過しただけでも嬉しかったのに、上京して受けた二次面接では面接官の方に「こんなに想像力を刺激されたのは久しぶりだ。楽しい時間をありがとう」と言っていただけて合格しました。
合格者研修では「行動力」「好奇心」の面で選ばれたと言われ、「物知り」とか現状のスキルではなく、「自分の好奇心・行動力って、長所になるんだ!」と驚きました。
このときの、「人に頼る」「自分で動く」を繰り返すことで成功するチャンンスが増える、という体験は人生の中で大事な学びとなりました。
そして、「卒業式の際に英語通訳者としての仕事の声がかかる」「留学体験を伝えるイベントにゲストとして出て欲しいと頼まれる」と人前にでるような機会がでてきました。
「なんでもやってみる」マインドが育ってきていたので、もう人前にたっても「怖くて頭が真っ白になってどうしてよいかわからない」ということもありませんでした。
こうして、引っ込み思案でただ見ているだけだった私が、大学生になってたくさん行動したことで、世界がどんどん広がっていきました。
そのまま教員採用試験に合格し、地元広島で小学校教師になることが決まりました。
ただ、大学を卒業するとき
「ついにタイムリミットが来てしまった。このまま広島で教師になったら、いままで海外に行ったり、知らない世界に飛び込んだり、という挑戦していた生き方ができなくなるだろう」と
まるで人生の終わりかのような気持ちになっていたのを覚えています。
大学生になって勇気を出して、一歩踏み出した先に、
自分が想像したこともなかった経験が広がっていました。
「自ら動く」ことで、それまでの「勉強」からだけでは得られなかった「経験」が増えていく、という経験がすごすぎて、それをやめることが考えられませんでした。
それは、自分の知っている世界にとどまっていたらできない体験でした。
地元の広島は、居心地がよかったし、子供の頃から漠然と家族の近くにいる未来を想像していました。
でも、「自分の成長」を考えたとき「いま地元で先生をはじめたら、きっと簡単にはやめない。冒険するなら、卒業直後から新しいところに飛び込むしかない」その気持ちが日に日に大きくなりました。
本当にギリギリまで悩んで、大学を卒業する直前の1月、
海外の日本人学校で直前の教員募集をしているタイミングの
締切2日前に速達で応募用紙を東京宛に出したのを覚えています。
2018年1月下旬に
広島駅のスターバックスでタイムリミットギリギリで
応募用紙をせっせと埋めていた人は私です。
そんなこんなで、広島の教師になるはずだったのに
直前でベトナムで教師になることにしました。
祖母から「私たちを裏切るのか」と言われたり
周囲の人に驚かれたりしましたが
自分の人生なので、誰も責任をとってくれない。
自分で決めるしかない、と気持ちを強く持って日本を後にしました。
新卒ベトナムでの教師時代
![](https://assets.st-note.com/img/1722122026218-bN5YjQu3iG.jpg?width=1200)
ベトナムの日本人学校での教員生活は、めちゃくちゃ濃い2年間でした。
ベトナムに渡って数日間で小学1年生の担任としての生活がはじまりました。
直前まで学生だった人間が、幼稚園を卒業したばかりの子供達を率いるのです。
4月に学校がはじまって5月のゴールデンウィークまでの記憶がほぼありません。笑
そして毎日ヘロヘロになりつつ学校に行き、気づいたら夏休みになっていました。
「社会人とは」という自分の中の常識が作られたのもこのときです。
ベトナムの日本人コミュニティは狭く、けっこう村社会的な感じだったので、職場特有の「こうあるべき」は厳しい方だったと思います。
例えば「教員は誰に見られるかわからないから、常に周りの目を気にするように」といったことから
「保護者から『遊んでいる』と目をつけられないように、外国人と街中で遊ばないよう」
などといったものまで言われていました。
教師の私生活の噂が広がらぬよう、ベトナムに渡る前にFacebookのアカウントを消してくるように、という指示もありました。
この時以来、「職場特有のルール」「閉塞的な環境」というものにアレルギーをもつようになりました^^ ;
仕事自体はすごく楽しく、子供たちの成長を毎日見守ることができるのが嬉しかったです。
覚えているのが、
「うちの子、すごく引っ込み思案なんです。クラスメートに話しかけるのも緊張してできないみたいで。大人になってもこの性格で友達ができなかったらどうしよう」と親御さんから相談を受けたことです。
確かにそのお子さんはあまりグイグイ前に出ていくタイプではなかったけど、よく笑うし優しくて、友達と楽しそうに遊んでいる姿を見ることが多かったです。
きっと「保護者の方から見えているその子」と「教師である私が見ている学校でのその子」は違う面もあるのだろうな、と感じました。
自分自身が、結構引っ込み思案な子供だったのでその親御さんの心配も理解できました。
「今でこそ教師していて人前で話すことも抵抗ないですけど、実は私も子供時代相当な恥ずかしがり屋でした。初めて会う子に自分から話しかけられなかったし、いまよりずっと人と話さない性格でした。でもいまでは人前で話す教師という仕事についています。何がきっかけになるかわからないけれど、本人が『もっと人と話したい』という気持ちになったら性格は変わるし、本人が楽しく毎日を送れているならそれが一番。いまそこまで心配しなくても大丈夫ですよ。」と励ましていました。
「先生も子供のときは恥ずかしがり屋だったんですか!信じられない!」と驚かれつつ、安心されたようでした。
「マイナス」だと思っていた自分の性格も、こうやって誰かの役に立つことがあるのだな、と嬉しかったです。
また、日本語教育に興味が湧いたのも日本人学校で働いていた時でした。
出会った子供の中に、ベトナム語でも日本語でもコミュニケーションが難しい子がいました。
・お父さんが日本人だけど、仕事の事情で日本に住んでいる
・お母さんがベトナム人で、家ではベトナム語を使って子育てをしている
・学校では完全日本語で学んでいる
という状況で、母語であるベトナム語もその子の年齢よりも2歳ほど低いレベルでしか理解できていない、という状況でした。
あとで日本語教育の勉強をしたところ
「ダブルリミテッド・バイリンガル」
という現象に当てはまるとわかりました。
人格形成のために、母語の力をつけることはすごく大事です。
もしも、どの言語でも中途半端にしか話せないと、複雑な思考ができなくなってしまう恐れがあります。
小学校低学年のうちはまだしも、ずっとこのまま両親が危機感を感じていなくて環境が変わらないと、どんどん学校の勉強からは遅れていくし、本人がつらいです。
日本のお父さんと連絡をとって、ベトナムにいるお母さんにもベトナム人の先生に通訳を頼んで、働きかけました。
普段の授業で他の子供もいる中で、その子にだけ取り出し授業ができず、学校に日本語を専門で教えられる教員の人数の余裕もなく悔しかったです。
ベトナムにある学校なので、その子は学校が終わってから日本語に触れる機会がありませんでした。
日本語での宿題を見てあげられる大人もまわりにおらず、勉強習慣も身についていないようでした。
休み時間に時間を見つけては「ひらがな」など基礎的なところから勉強をみたけれど、休み時間は友達とも遊んで欲しかったし、一教員としてできることが限られていてもどかしかったです。
勤務時間が終わってから、日本の自分の親に電話しながら、よく悔し涙を流していたのを覚えています。
「親の願い」「環境」といった外的な要因は子供には全くコントロールのしようがないところです。
でも大人の事情でそうやって苦労している子供達を何人も目の当たりにして、
せめて私に「日本語教育」の知識があれば、もっと役に立てるのにな、と思っていました。
そんなこともあったので、2年の日本人学校での任期を終えた後は、日本語教育の勉強をしたいと考え、それを次の目標にしました。
なのでベトナムにいる間に英語の勉強&試験を受け、大学院の試験も受け、アメリカの大学院で奨学金を受けながら日本語教育の勉強をすることが決まったときには嬉しかったです。
やりたいことを先延ばしにするのに人生は短い。
世間一般的な目線より、自分の人生でやりたいことを優先しよう。
そう思って、「20代でやり遂げたいことリスト」を作ってそれをやり遂げようと誓っていました。
日本に帰国→働き方を変えたいという思い
充実しつつも、制限も多かったベトナムでの社会人経験2年。
日本に帰ってから反動で遊びまくりました。
日本の食事が美味しすぎて半年で10キロ以上太りました^^ ;
「社会人をしていると自分の時間がほとんどない」ことを実感したあとだったので
自分のために使える時間があるのが嬉しすぎて、気になっていたことなんでも調べてやってみた時期です。
![](https://assets.st-note.com/img/1722122321898-UXUW5ZifJP.png?width=1200)
夏からはアメリカの大学院に行くことが決まっていたので、半年でがっつり仕事はせず、派遣で半日のみ保育士として働くことにしました。
実家で暮らしていたので、家賃の心配はなかったし、とにかく日本にいて自由にできる時間が限られている意識があったので、まるで大学生の頃のように
「ずっとやりたかったけどできなかったこと」を集中して行いました。
特に英語検定や日本語教育の資格、日本のバイクの免許は、「とりたい」と思ったときに日本にいなければ取れないものです。
海外暮らしが長くなりそうな予感があったので、まとまって日本にいれるいまのタイミングで検定ごとも全てとってしまうことにしました。
・海外にいても働ける方法を模索したい
・バイクに乗れるようになりたい
・英検1級をとる
・日本語教育の資格を取る
・派遣で保育士として働く
特に保育士の仕事は衝撃でした。
子供の成長を見守れる、すごく充実した仕事だと思いました。
ただ、自分のお母さんのような歳の人たちが、家庭をまわしつつ朝から晩まで他の家の子供のために働いて疲弊している様子を見て、
このまま普通に「先生」として一生はやっていけない、と本格的にキャリアを考えるようになりました。
「先生」としての仕事には情熱を感じるし、それについてせっかく大学でも勉強してスキルも磨きたいけれど、それだけじゃ、自分の望む人生を実現できないと感じました。
やりたいことがまだまだたくさんあります。
・両親を連れて旅行に行きたい
・行きたいときに国内外旅行に行けるように経済的にも時間的にも自由でいたい
・値段を気にせず良い寿司屋でお腹いっぱい食べたい
・新幹線で地元広島に好きなときに帰りたい
・時間に追われず家族との時間を過ごせるようでいたい
こんなふうに実現したいことを考えていたら、「いままでの組織で働く働き方」でない方がよいのでは、と思い出しました。
このときからずっと「自分の生き方を自由に決めたい」「自分の力でお金を稼ぐ力をつけたい」と思い続けています。
とにかく
経済的自由
時間的自由
を手に入れて、「好きなように生きたい」気持ちが強いです。
幸い、ノンストップで行動し続けたお陰で20代でやりたかったことは達成できそうでした。
いま一生懸命努力して働き方を模索して、30代では自分で働きたいと次の目標ができました
それを達成するまでのロードマップは当時、描けていなかったけれど、どうにか見つけるしかないと思いました。
ネットで調べるうちに「ネットビジネス」だと低リスクで始められるし、場所を選ばずに働けそうだとわかりました。
ブログで情報発信するのなら、初心者の自分でも始められそうだな、と軽い気持ちでブログを書き始めました。
ゴールデンウィークには、ブログを読んだことしかなかった状態から、ワードプレスを使って自分のブログを開設しました。
初心者がなんとか作ったようなクオリティーでも、とにかく記事が書けるような状態になったのが嬉しかったです。
とにかくそのときそのときで、「書きたい」と思ったトピックで書いてきて、いままでブログのトピックころころ変わっています。
「英語学習」
「海外生活」
「国際恋愛」
「日本語教育」
ただ、書いても書いても、収益にはつながらなかったです。
「そう簡単にはすすまないのだな」と感じつつも、自分の考えをブログという場所で表現していけるのが楽しかったです。
オンライン英会話の講師をはじめる
当時、興味のあることの一つだった「オンライン英語講師」として仕事もやってみていました。
「教師」という仕事は好きだったので、住む場所が変わっても教師として、働き続けられる環境を求めて辿り着きました。
特にコロナウイルスが広がってきていた2020年だったので、世界中の学校が閉鎖し、オンラインレッスンに移行している時期でした。
オンラインの仕事なら、教師としての経験を活かしつつ、自分のキャリアも続けられると思いました。
・ネイティブキャンプ
・ワールドトーク
などいくつかのオンライン英語のサイトに登録して活動していました。
少しずつレッスン予約が入るようになり、子供から70代の方まで、幅広い年齢の方と関わりながら英語を教えるのは、やりがいを感じました。
サイトによっては「オンライン上に待機しておいて、相手からのリクエストが入ったらすぐに始める」というようなスタイルの教え方もありました。
「どんな学生が来るのか」
「英語のレベルはどのくらいか」
「どんな教材をやりたいのか」
といったことが何もわからないまま、はじめまして状態で教える必要があり、メンタルが鍛えられました。
「どんな人が来ても、ある程度相手に合わせてその時間中英語を使って楽しませる&勉強の機会を提供する」
ということが鍛えられたと思います。
いまオンライン日本語教師になりたい方からの相談で
「レッスンのやり方がわからず不安」というものが多いです。
すごくわかります!
はじめたばかりの頃は特に
「知らない相手と初対面で、価値提供しなければ」
とすごくプレッシャーに感じていました。
例えば事前連絡は何もなく、レッスンの中で
「関係代名詞の目的格がわからないので教えて欲しい」
と急に言われることがあります。
「英文法」について苦手意識をもっている私は、残念ながら文法名で聞いても咄嗟にそれが何を示すのかわからないことがあります ^^;
慌てて「なるほど、目的格ですね。ちなみに○○さんが関係代名詞についていま知っていることはどんなことがありますか?」など聞き返し、時間を稼ぎながらネット上で検索して、それを見ながら説明する、なんてことがよくありました。
学生の立場からすると「先生にはなんでも知っていてほしい」と思うと思いますが、私は無理だと思っています ^^;
小学校の教師になったからといって、全教科小1〜小6までの全教科が全て頭に入っているわけがありません。
授業のたびに勉強し直して、必死に毎日の授業をこなす中で「授業できるように」なっていくのです。
「できようができまいが、教えられる」必要があります…。
自慢できないかもしれませんが、基本的にその考え方でオンライン英会話、もオンライン日本語教師もやってきました。
質問されたら、その場で自分のできるベストな回答をする。
そして躊躇なく調べる。
できるだけ学習者が納得しやすい説明の仕方になるよう努力する。
その繰り返しで、段々同じ質問を2回目、3回目、と繰り返しうけることで、段々と自分なりの理解が深まってきます。
もちろん事前に教科の知識が頭に入っているのなら、それに越したことはないのですが、それよりなにより「実践」をつんで「その場を乗り切る」ことで鍛えられる面があると思います ^^;
ただ登録していたオンライン英会話のサイトは、単価が安い割に安定しておらず、自分で価格設定もできなかったので、仕事としては長く続けられないと感じました。
英検1級を取得する前、何度か過去に落ちているため自分で勉強するのに自信がなかった時期に、英語コーチングを受けようかと考えた時期がありました。
いくつかスクールを調べているうちに、価格が高すぎて断念していました。
結局、1箇所無料相談会を受けてから、そのアドバイスをもとに自分で勉強することにしました。
ただその無料相談会で「単語力をつけるのが優先ですね」と言われたアドバイスが的確で、もし自分にお金があって時間がなかったらサービスに申し込んでいたかもしれないと思いました。
自分の経験を活かすという意味では、英語コーチングをやってみるのもいいかも、と思い、英語コーチになるためのコーチングスクールに申し込みました。
80万円くらいする半年間のスクールで、人生の中で当時一番高い投資でした。
コロナ到来で台湾へワーホリ
話は変わりますが、私はアメリカ人の夫とベトナムで出会いました。
日本人学校で働いているときに出会ったのですが、私が任期を終えて日本に帰って、ベトナムにいたいまの夫とは遠距離恋愛をしていました。
わたしはアメリカに留学することが決まっていたし、夫とは半年後にアメリカで落ち合う予定でした。
ただ、当時はコロナウイルスが始まった時期でした。
思っていた以上に事態は深刻になり、ついに6月ごろに合格が決まっていたアメリカでの奨学金付き大学院の話が、キャンセルになりました。
しかも、いつ再開されるかわからないということです。
20代のうちに達成したかった夢の一つに「英語で教育に関する修士号をとる」というものがあったので、流石にこれにはショックを受けました。
次のステップが急に白紙になりました。
しかも、コロナがいつまで続くかわからない状態です。
すぐに日本に外国人が渡航できないことになり、わたしも留学の話がなくなったので、夫と終わりの見えない遠距離恋愛が始まりました。
夫と「このまま日本で世界の様子が変わるのを待つのではなく、いっそどこか別の国に行って落ち合おう」と話し合い、落ち合える場所を探していました。
幸い私の年齢的にワーキングホリデーができる年だったので、まだコロナで入国制限がかかっていない場所の中から候補を絞りました。
私の20代のうちの目標に「中国語で中国語圏の友達と話せるようになる」ということがあったので「台湾にしたい」ということで台湾にワーホリすることに決めました。
日本語教育能力検定試験を受ける準備をしていたのですが、その試験日が10月25日でした。
その試験は受けていきたかったので、試験日の3日後に台湾にいく飛行機を予約して、大阪の大使館にいってビザを取りました。
こうして当時26歳になったばかりだった私は、バタバタと台湾に行くことを決めました。
![](https://assets.st-note.com/img/1722122470714-0STrLmRkLw.jpg?width=1200)
私が台湾にわたってすぐに、台湾もコロナによる規制が始まり、簡単には入れないようになりました。
やっぱり「やろう」と決めたことは即決してすぐ動くって大事だな、と改めて感じた経験でした。
台湾での生活は、楽しくもはじめは苦労の連続でした。
わたしは大学で中国語を1年半勉強していましたが、とても話すことができるレベルではありませんでした。
夫に至っては漢字がわからないので、右も左もわからない状態でした。
私の日本人としての漢字の理解でなんとか生活に必要なことを判断する日々でした。
わたしは仕事も決めずに台湾にわたったので、ベトナムで貯めた貯金を崩しての生活でした。
具体的なことがほぼ決まっていない中で突発的に決めたワーホリでしたが、この「ノープラン」の時期があったからこそ、オンライン日本語教師という仕事にも出会えたし、中国語も鍛えられました。
「勇気を出して一歩飛び込む」選択で、無駄なことは何もないのだと感じます。
とにかくワーホリの間、できるだけ中国語を勉強したかったので、現地の大学で中国語を平日2、3時間ずつ毎日習いに行っていました。
わたしはオンライン日本語講師ですが、自分が言語を習うときは、実は教室にいって仲間と切磋琢磨しながら勉強する方が好きです。
まわりの環境に影響されやすい方なので、自分の他にも言語習得を頑張っている仲間がいる方が、勉強に集中できます。
だから、自分のオンラインレッスンを通して日本語を上達させていく学生さんたちを素直に尊敬します。
レッスン以外の時間は自分でモチベーションを保って、勉強を続けているのですから、「すごい」「なかなかできる努力じゃないよ」と日々伝えていますし、心からそう思っています。
生活しているのもあり、毎日中国語の授業を受けて宿題もこなしていたのもあり、「知識」だけだった中国語が「使えるスキル」に変わっていきました。
検定でいうと私の中国語レベルはHSK4級で、日常会話がギリギリできる程度です。
それでも、日本語をレッスンするときに、自分が中国語レッスンで受けてきた経験が役立つと感じることが多々あります。
「もう1回言ってください」「わかりましたか?」などの言い方が中国語でわかるので、コミュニケーションをとるのに役立っています。
もし多言語をつかって日本語を教えるのに苦手意識がある人は、その言語のレッスンを受けてみて、「先生がどんなふうに自分に指示をだしているかな」という視点で勉強すると、実践力が身につきますよ!
台湾にいる間に、英語コーチングの講座もオンラインで受け続けました。
「どうやったら言語への苦手意識を克服できるのか」
「どうやって発音練習をするのか」といった英語の教え方から
「ブランディングとは」「どのように商品を売るのか」といった内容までありました。
あまりそれまで「集客」「サービス提供」というものを個人でやろうと思ったこともなく生きてきたので、そうしたことを学ぶのがすごく面白く感じました。
そのときに毎週2,3回YouTubeで動画を作って流したり、Facebookで英語イベントをして集客したり、実際に英語ゲームイベントをしたりとやっていました。
ただそのときに感じたのは
「SNSを使って自分で一から集客するのは、とてつもない時間がかかるし、時間をかけたからといってお客さん獲得につながるかは厳しい道」
だということです。
実際のお客さんが誰もいない状態で、お客さんのニーズを見極めてサービスを作って、それを売るというのが、難易度高すぎると感じました。
多分振り返ると、「英語コーチとして生きていく」とそのときは心の底で決心できていなかったと思います。
半年間のコースをずっと続けたのに、最後の2回のセッションを残して
「いよいよお客さんを探してやってみてください」と言われたところで
「私にはできません」となってしまいました。
そもそものコミュ障の私にとって、知り合いも親戚も全員見える状態のFacebookでの集客は苦しいと感じてしまったことも要因です。
そのときの経験もあり、これからオンライン日本語教師を始める方には、まずはプラットフォームに登録して集客しやすい状態で経験値を積むのをおすすめします。
よっぽど「ニーズ」「自分の提供できること」「集客の仕方」がわかる人なら初めから自分でやっても良いと思います。
でもほとんどの「やってみたい」状態の方は、まだ「日本語学習者がどんなところで躓くのか」「何をもとめてレッスンを受けに来るのか」のイメージができていない状態です。
その状態で一から集客の勉強からはじめていたら、せっかく「教えたい」と思っていてもそれを実現するまでに時間がかかりすぎてモチベーションが保ちづらいと思います。
個人でやっていくとしても、プラットフォームでできるだけ教える実践を積んで、「自分の教えたいことと相手の学びたいことはここだ」という兼ね合いがわかり、レッスンの進め方もわかるようになった上で、個人の集客をしても良いのではと思います。
中国語の勉強、英語コーチの勉強のほかに、就職活動もしていました。
日本語教育能力検定試験が受かったかどうかはまだわかりませんでしたが、とにかく経験値をあげたかった私は、台湾で現地の語学学校にやとってもらおうと、飛び込みで履歴書をもって「雇ってください」と言って回りました。
住んでいた桃園の中壢はもちろん、バスや電車で通える台北の方にも足を伸ばして履歴書を配っていました。
が、結果は全滅でした。
当時コロナで外国人が台湾に入ってこない状態だったので、ただでさえ語学学校の継続が難しい状況だったのと、はっきりいって私のポテンシャルが低いと思われたのだと思います。
なぜそう思うのかというと、中国語もままならない、英語ネイティブでもない人を先生にするメリットは低いと実際に言われたからです^^ ;
「英語ネイティブの夫が羨ましい」と何度思ったことか。
でも、今となってはあのとき語学学校に雇われなくてよかったと思っています。
そのおかげでオンライン日本語教師に辿り着くことができたので!
「せっかく日本語教師がやってみたいと思ったのだから、とにかく経験しよう!」
そう思っていたので、諦めず日本語教師としての働き方、将来の選択肢も含めて調べ続け、オンラインで教えられることを知りました。
しかも資格がなくても教えられると書いてあるではありませんか!
まだ試験の結果はでていませんでしたが、そこからはとにかくitalkiに登録し、見様見真似で流行っている先生のプロフィールをみながらいろいろ試しまくる日々でした。
値段設定のやり方を考え、どうすれば人気の先生になれるのか、とにかく時間を見つけてはリサーチをしました。
教科書をオンラインで買って、教え方の研究もしました。
子供の教科書だけは実物で欲しいとなって日本から取り寄せたこともあります。
試行錯誤を重ねて、毎回のレッスンでベストを尽くして対応しているうちに、やればやるだけ結果がついてきて、当時はとにかくitalki中心の生活をしていました。
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1週間で50レッスン教える週もあり、とにかく体を壊さないように、レッスンの効率化や学生の満足度を保つ工夫を続け、毎日あっという間に過ぎていました。
その間も中国語の学校には通っていたので、本当に1日があっという間でした。
そして気づいたら夫の月収を超えるくらいオンラインで稼げるようになって驚きました。
当時は無我夢中だったので、「あれ、もしかして前に願っていた、どこでも自分のやり方で働けるようになる状態が達成できている?」と気付いたのは、その数ヶ月後です。
「これってもしかしてすごいことなのでは?」と思い、時間が空いた瞬間、記憶が新しいうちにkindle本として残しておくことにしました。
そうしてあっとう間に台湾ワーホリが半年たち、次にどこにいくのか考えるようになりました。
夫は日本で大学院に行くといっており、その準備をしていました。
わたしはまだ大学院にいきたい気持ちは多少あったものの、「コロナが明けるのを待ちながら自分の進む方向が宙ぶらりんな状態は嫌だ」と思ったので、一度大学院にいくということを諦めました。
せっかちな性格なので、「先が見えないコロナの終焉」を待ち続ける自信がありませんでした。
そこで University of People という、完全オンラインで受けられる教育系の大学院への通学を台湾にいたころ始めました。
いま思い出すとあとからあとから当時やっていたことが出てきて、本当に欲張りな性格で同時進行でいろいろなことに手を出していたな、と思います。
その中で上手くいったことも上手くいかなかったこともありますが、そのうちのいくつかが、今の次のステップにつながっているので、やっぱり気になったことはやてみるというのはやってよかったです。
とにかく自分はアメリカの大学院にいくことを諦めていたし、夫は日本に来るつもりだし、次は日本に帰るかな?と思って過ごしていました。
そんなとき2021年4月ごろ、アメリカの奨学金プログラムの運営の方から1通のメールが届きました。
![](https://assets.st-note.com/img/1722058522454-qvLr7tOrak.png?width=1200)
「英語教育と日本語教育の修士の枠があきました。君が大学院に行きたがっていたことを思い出して、連絡しました。挑戦したいか教えてください。」
と言った趣旨の内容でした。
私は「簡単には大学院のプログラムは再開しないだろう」と思っていたので、次の年にもう一度声がかかったときには「これはいくしかない。もうないかもしれないチャンスだ!」と思いました。
大学院合格のための勉強や手続き、その資金準備や時間、大学院に行くためにはいくつもクリアしなければならないことがあります。
どれがいまなら全部なんとかなりそうだったので、いま挑戦するしかない、と思いました。
アメリカ留学の話をまだ彼氏だった夫に伝えたとき、「急に考えられないけど、もう自分は日本にいく気持ちで動いてきていた。アメリカの大学院は諦めてほしい。」といったことを言っていました。
え、そうなんだ、とちょっとショックでした。
それでも、大学院の話を受けるかどうか、2日くらいで決めて返事をしなければいけなかったので、期限が迫っていました。
いくしかないと思いながらも、せっかくitalkiで場所を選ばず働けるようになってきたのに、それを手放すのも嫌でした。
どうするか、決まっていないまま、たまたまいった美容院で台湾人と結婚した日本人の美容師の方がこんなことを言ってくれました。
「自分がやりたいことを優先しなさい。結婚して、子供が産まれて…そういったことは、今の相手でなくてもまた機会があるかも。人生で自分がやりたいことは、譲っちゃダメだよ。」
子供もいるその方の経験談を踏まえた言葉が、めちゃくちゃ心に響きました。
このタイミングでこのメッセージをくれてありがとう、と感謝しました。
多分美容院に行く前から、どうしたいか心は決まっていたんだと思います。
たとえ夫がアメリカについてこなくても、私はこのアメリカ留学の機会を諦めたくない、と思いました。
それで別れるのも覚悟の上で、夫にアメリカで日本語教育を学ぶ決断を伝えました。
すると夫は「混乱して、とっさに君の夢をサポートできなくてごめん。アメリカに行くのが一番理にかなっているって、いまは理解している。僕も行くから、アメリカに行くこと前向きに考えよう。」と、180度反対の意見になっていました。
え、じゃああの反応は何だったの?と思いましたが、それでも、いまでもあのときの夫の決断に感謝している。
あそこで夫も短時間で考えをまとめてくれなかったら、別れていたかもと思います。
幸い、そのALLEX奨学金の窓口となっていたアメリカの大学教授がすごく親身になって相談に乗ってくれました。
夫は英語教師をしていて、英語教育の修士がとりたいこと。
私がアメリカで日本語教育の終始を取るタイミングで、一緒に大学院に入りたいこと。
いまからでも間に合うかなどを相談しました。
教授の答えは以下のようなものでした。
大学に「正式に入学が認められる」可能性はいまからでも十分あるし、
もしも間に合わなくても、「非正規学生」として授業がとれて、
それをもって次のタームから正式に学生として登録できる。
そこらへんはフレキシブルだから、いまの状況だと十分に同時に大学院に行けると思うよ。
事情を知っている人に、状況をみてアドバイスをもらえるって、こんなに心強いんだと思いました。
その言葉通り、私たちは2021年9月から2023年6月までの2年間弱で、2人とも修士をとることができました。
この大学は特に研究に時間がかかることがあり、卒業まで3年以上かかるかも、と言われていたのですが、20代のうちにやりたいことリストがまだ残っていたので、なんとしても2年で終わらせたい気持ちがありました。
がむしゃらに勉強して、働いて、無事卒業できたときには、安心でしばらく放心状態でした。
さて、話は戻りますが、2021年の4月にアメリカ大学をきめましたが、その時期はちょうどitalkiをはじめた直後でした。
当時学生さんがついてくれて1週間に50レッスン教えたりしていた時期でした。
在宅で会社員なみに収入が得られるようになって、喜ぶ反面、この調子では体がもたないと思いました。
大学院生活が始まる前に、働き方を見直そうと新規学生募集をストップし、学生数を減らすのもあって値上げすることにしました。
そして2021年7月ごろ、italkiの学生数も落ち着き、ビザの準備などのため日本に帰ったタイミングで時間に余裕ができたので、この機会を逃すまいと、italkiでの経験をkindle本としてまとめることにしました。
ブログでまとまった文章を書き慣れていたので、見よう見まねでやりつつ、1週間くらいで集中して出版までできました。
「こんなに簡単にkindle本が出版できる」ことに衝撃を受けたし、ブログよりも簡単にできるのにはじめの月に600円ほど印税が入り驚きました。
執筆はまとまった集中できる時間がとれないと、なかなかできないので、時間を見つけては書くことにしました。
大学院が始まるまでにもう1冊書き、初めての冬休みのタイミングでもう1冊書きました。
大学院の間は怒涛の日々。
大学院が始まり、1日が24時間じゃ足りない、といつも思っていた怒涛の日々でした。
フルタイムの大学院生+大学の日本語の授業を教える+italkiでの日本語レッスンという3つのことを続けていました。
それプラス、週2で泳ぎ、隙間時間にブログを書き、休みの日には作り置き弁当を作っていました。(ポートランドは食費が高かったんです。)
そんな怒涛の大学院生活でしたが、Italkiで日本語教育を続けていたのはすごくよかったです。
自分の生活がどれだけ忙しく大変になっても、友達以上の頻度で毎週話している学習者に会うと、逆に元気をもらいました。
またアメリカの大学で習った日本語教育についてのトピックや、ポートランド州立大学で頑張っている日本語の学生の話をするのも、italkiの学生に喜ばれました。
自分が感じるオンライン語学学習のデメリットが「一緒に頑張る仲間が見つけにくく、孤立しやすいこと」です。
自分の生活が忙しくなると、日本語の勉強が疎かになりがちです。
なので、積極的に日本語や日本語学習に興味をもってもらえるネタを、レッスンでは伝えるようにしています。
大学の授業でで教授から教えてもらう日本語ネタも全てがオンラインレッスンのネタになりました。
それまでは学生から質問されるたびに「ちょっとまってね」と調べ調べ対応していましたが、大学で授業を受けて、体系的に日本語を学ぶことで、基礎知識も、学問としての日本語の考え方も理解が深まりました。
それでも、私がオンラインで日本語を教えずに大学院に行っていたら、おそらくいまほど「自分ごととして全てを吸収しよう」という態度で大学院の授業が受けられなかったと思います。
すでに私を慕って日本語を習ってくれている学生たちがいるので、
「その人たちのためにも、私が日本語教師としてレベルアップしなければ」
「この話をどうやって彼らに伝えよう」
そんな視点で勉強できました。
大学院で日本語教育について学ぶ中で教授から
「学習者からこんな質問受けたらどうする?」といった、自分ならではの考えを答えさせられる場面が多かったです。
アメリカの大学では、とにかく「あなたならどうする?」「あなたの意見は?」とよく自分ならではの視点を聞かれます。
italkiで日本語を教えていてよかったと思ったのが、普段からレッスンでその場で聞かれた質問に答えなければならないことが多かったので、とりあえず自分で考えて答える訓練が知らず知らずの間にできていました。
「正しい答えを調べてから伝える」余裕がなかったからなのですが、結果的に教授に日本語について聞かれても、その場で自分の考えがスラスラ答えられました。
これは試験勉強するだけではできなかったことだな、と嬉しかったです。
日本人のクラスメートが私と同じように、コロナで行けなかった間に日本語教育能力検定試験を受けて受かっていました。
彼女も個人的に日本語を教えた経験があるけれど、「自分の考えを発言するまではできない」とよく悩んでいました。
よく「ミヤコちゃんはどうやって、日本語の知識をそんなに身につけたの?」と聞かれていました。
(その度にitalkiのことを話してすすめてきたが「すごそうだけど、私にはできない」と言われました💦)
だから、いま「日本語教師になるには、まずは資格をとった方がいいですか?」と相談されると、わたしは「まずは教え始めましょう」と伝えています。
「行動する」「教え始める」ということの方が、ただ座学の勉強をすることよりも、エネルギーを使います。
誰だって「やってみて、失敗する」のが怖いし、避けて通りたいと思います。
でもその怖さを乗り越えてやってみた経験があれば、そのあとの学びもずっと濃いものになります。
「知識だけある」状態ではなかなか、良い先生になれません。
「学生に向き合った経験がある」「常に新しいやり方を試して学生の成長を一番に考えられる」人は、たとえ知識が今なくても、将来出会う学生のために頑張れます。
教える機会があるのなら、行動しましょう!
話が大学院に戻ります。(話したいことが多過ぎて、前後してすみません。)
タームがある間は、それでも日々の宿題や授業準備、受け持っている日本語クラスの宿題添削に追われて余計なことが一切できなかったことがほとんどでした。
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時間があれば課題のためエッセーを書く日々です。
お互い余裕がなく、夫とも大喧嘩してカップルセラピーに通ったこともあります。
そのかわり学生だったので、冬休み、春休み、夏休みがありました。
その期間が貴重だったので、それぞれ短期目標を決めて大事にすごしていました。
アメリカの運転免許をとったり、日本に帰ったり、中国語を忘れないようにオンラインで習ったり…
大学院の生活でお金もなかったので、アメリカでクレジットカード効率的に作ってポイントをためて、それで飛行機代も浮かしたりいろいろして旅行もしました。
特に1年目の冬休みは、アトランタにある夫の家に帰って年末をすごしました。
2021年の12月ごろ急に時間があいたので、kindle本を1冊書いて、いままで書いた3冊を使って何かできないか考えました。
幸いオンラインのkindle本の情報は、ブログやkindle unlimited(定額払えばその中で登録してある本が読み放題のサービス)で探すことができました。
当時は日本語で読める情報に飢えていて、長期休暇のたびにkindle unlimitedで読書に耽る習慣がありました。
そうやって出版したkindle本を使って、何かできないか情報を探していると、「カンさん」というすごい人がいる、ということを知りました。
kindle本で5000万円の収益化をされているkindle本に興味がある人で知らない人がいない実績者です。
2021年の当時、kindle本の出版が誰でもすぐできるものだということが、今よりまだまだ知られていない状態で、カンさんのコンテンツはスピード感があり、読んでいてすごくわくわくしたのを覚えています。
自分と近い年の人たちが、どんどん新しい挑戦をされていて、それを情報発信してくれていて自分もわくわくしている、というのに感動しました。
まとまった時間があって、その時間でいまできることをしたかった私は、どんどんkindleについて勉強していきました。
カンさんのkindle本やコンテンツから始まり、彼のまわりのkindleや情報発信について発信されている実績者の人たちのコンテンツにもいきつき、インプットしては自分でXのアカウントを使って発信することを繰り返しました。
動ける時間が冬休みの3週間しかなかったのですが、その間にできることをやりました。
無料キャンペーンを行ったり、どうしたらTwitterのフォロワーが増えるか、発言が読んでもらえるか研究したりするうちに、kindleのレビューがついていき、ほとんど読まれていなかった本が人目に触れるようになりました。
それにこの頃、kindleを読んだ方やブログを読んだ方から、メッセージをもらうことがありました。
国際恋愛で悩んでいる、という方から恋愛相談をもらうこともありました。
kindleで知って、オンライン日本語教師をやってみたいと言われた方のプロフィールをプロデュースするサービスを初めて行ったのもこの時です。
自分で考えて、動いて、発信しているものに反応があるというのはすごく嬉しかったです。
ブログを書いていたときには書いても書いてもすぐに結果が出なかったし、それが当たり前だと思っていました。
でもkindle出版はそれが違いました。
しかもカンさんたちの情報が教科書のようにやり方を示してくれたので、自分で自分の都合の良いタイミングで勉強することができました。
「すごい!」とこの分野の可能性に感動しつつ、冬休みが明けると怒涛の日々でkindleについて何かすることもできずにそのときは日常に戻ってしまいました。
大学院に入る前の進路希望では、大学院を卒業してから、海外で日本語教師として働くのっていいな、と漠然と考えていました。
ただ、自分の大学で非常勤として働いていた人たちや、日本での日本語教師の求人の様子を見て、「修士資格をとっても、学校に雇われて働くことでは自分の生きたい人生が達成できないのでは?」とうっすらと思うようになってきました。
卒業が近付くにつれて、「いまやっているオンライン日本語教師を中心に、いくつか働き方を模索できないか」「kindle本を使って、何かここから広げられないか」そんな可能性を考えていましたが、形にならずにいました。
2年目の冬休みから、スピリチュアル系の情報発信者の方の開催する「女性起業家のサポート」を受けました。
半年で20万円の自己投資でした。
「自由に場所を選ばず働けるようになりたい」と思っていたけれど、その道筋が見えなくて、卒業も迫っていてどうしても何か形にしたいと思っていました。
やりかけのブログやkindleを思い出し、「オンライン日本語教師以外の方法でも働けるようになりたい」という気持ちが強まっていました。
これも、大学院生活の合間を縫って取り組みました。
自己投資をしたことで、一方的に見ていた情報発信者と話す・つながる機会がある、という経験に感動し、「もっともっと挑戦して成長したい」というマインドになりました。
悩んだ末「国際恋愛」という分野で情報発信をしたけれど、最後の「サービスを作る」ところで上手くニーズがわからず、形にならずに終わってしまいました。
私は、普段の生活にそんなにお金を使わないほうなのですが、自分が本気で達成したいことのためには結構、自己投資をおしみません。
これまで、ワードプレスの有料テーマや、オンラインビジネス講座、英語コーチング、起業のための講座、キャリアコーチと、今の時点で総額250万円以上、自己投資にお金を使っています。
自分でお金を払って集中して学ぶと、無料情報では得られない濃い情報が得られるし、自分の覚悟も高まるので成長できるスピードがはやいからです。
ただ私の課題として、英語コーチングと起業については、「サービスを作る」「それをオファーする」というところでどうしても上手くいきませんでした。
相手のニーズを見越して商品を作り、情報発信を続けて自分の存在を知ってもらい、興味をもってくれた人にオファーするという流れがすごく難しかったです。
考えてみると、教師になったときも同じ課題がありました。
まだ教員として働いたことのない学生時代に指導案を書いても、「子供の姿が思い浮かべられてない」とよくコメントをもらっていましたが、イメージできないものはなかなか努力でイメージできるようになりませんでした。
それが教員として働いてみたことで、四六時中学校で子供と関わるようになり、「学生がどんな反応をするか」が想像できるようになりました。
オンラインレッスンも近いところがあるように感じます。
一番初めにオンラインレッスンをはじめるときは
「どんな学生が来るかわからない」
「どう進めて良いかわからない」
そんなところが不安になるし、学習者と関わっていないとそう思うのは当然だと思います。
私も、はじめてオンラインレッスンをしたときは
「人生最大の山場だ」
「逃げたい」
「学生がお金払ってきてくれて、なにも提供できなかったらどうしよう」
とめちゃくちゃ緊張していました。
どんな人が来るのか、自分がどう接すれば良いのかわからないから、余計不安になりました。
そしてレッスンが終わると、緊張し過ぎてあまり自分が何を話したか覚えていませんでした。
幸い1人目の学生に恵まれて、肯定的な感想を言ってくれて救われました。
それでも、レッスンの後は丸一日寝込むくらい体力を使い果たしてぐったりしていました。
でもやっぱりそれを乗り越えてレッスン数をこなすうちに
「この分野なら教えていて手応えがあるな」
「このタイプの学生にはこういう声かけが効果的だな」
と自分の中に経験がたまっていき、新しい学生にも対応しやすくなっていきますし、自分のアピールポイントがわかってきます。
実践する中で努力し続けて成長する、というのが一番効率の良い成長方法なのではないかと最近特に思います。
そんなこんなで、卒業課題も書き上げ、なんとか2年で大学院を卒業した私たちは、卒業して日本に帰って次の月に結婚式をあげました。
海外にいる期間が長かったので、一度日本に長期で帰って落ち着きたい気持ちがありました。
が、夫との話し合いで、日本に帰って落ち着く前にもう1ヶ所、まだ行ったことのない大陸であるアフリカでの暮らしに挑戦したいという希望がでてきたので、アフリカのジブチという国に行くことになりました。
ジブチでの挫折経験
![](https://assets.st-note.com/img/1722123410881-trLYjAHikh.jpg?width=1200)
ジブチというのは、ソマリアとエチオピアのとなりにある、フランス語圏の小さな国です。
ソマリ族とアファール族という2つの部族の人々が主に住んでいて、イスラム教の国です。
夫はジブチのインターナショナルスクールで英語教師として赴任することが決まっていました。
私ははじめ、JICAの青年海外協力隊に参加してのジブチ派遣が決まっていたのですが、諸事情あり続けられなくなってしまいました。
私がジブチに行けなくなったタイミングで、夫はすでにジブチに赴任していたので、私もジブチでできる仕事を必死で探しました。
レジュメを送ったり、オンラインで面接を受けたりして、やっと就職先が見つかりました。
アメリカでの大学院卒業ということと、日本の教員免許が考慮されて、夫の働くジブチにあるアメリカのインターナショナルスクールに3、4年生の担任として採用されました。
フランス語圏のジブチで、英語で各教科を教える、という職務内容でした。
普段の「やっていけばできるようになる」の精神の私ですが、このときは大きく挫折しました。
まずその学校には「カリキュラム」とそれに沿った「教科書」がありませんでした。
正確にいうと教科書は数冊あったのですが、人数分ありませんでした。
ちなみに教師用の解答解説もありません。
コピー機は学校全体で1台あるけど、それも週の半分くらいは壊れています。
人数分ない教科書をコピーできるときはして、できなければ何もないところで教える必要がありました。
しかも複式学級なので、算数や英語のレッスンは3年と4年の別の内容を同時に教える必要がありました。
サポートの先生が入ってくれる時は、まだ半分の人数を任せられるけれど、いない時間帯(算数の時間はそれでした)は1人で2学年をみる必要があります。
その学校の学生は、フランス軍の家族の子供たちが多かったので、ジブチの現地の子供よりもフランス人の子供が多い学校でした。
フランスに普段住んでいて、親の赴任で数年だけジブチにやってきた学生が多かったです。
いくら子供で吸収が早いとはいえ、半分の子供たちが英語がわからなくてフランス語のみわかる状態でした。
私はフランス語をジブチに来る前に勉強をはじめたところで、とても基礎知識がみについているとはいえない状況でした。
理科と社会にいたっては、元になる教材がほぼなく、自作のスライドを前日の夜中まで作る日々でした。
そしてジブチは世界一暑い国なので、体力がどんどん消耗されていきました。
休みという概念がなくなり、気づいたら涙がとまらなくなっていました。
多分、このころ精神状態がおかしかったです。
気力がでない、ネガティブ思考がとめられない、吐き気がとまらないという状態になってしまいました。
英語か日本語で対応してもらえるメンタルクリニックなどの設備も近くになく、やむなく年の途中でしたが、4ヶ月で日本に帰国しました。
このときの経験はしばらく大きなトラウマになってしまいましたが、日本にいたら会えなかったであろう人たちに会えて、普通の人が経験してないであろうことを大量に経験できた、自分にとって貴重な体験です。
余談ですが、オンライン日本語教師で「ジブチに住んでいた」というと、大抵「ジブチってどこ?」と興味をもたれます。
なんでも飛び込み過ぎて挫折も人一倍多い人生ですが、相手に面白がってもらえる情報が増えたと考えれば、マイナスではないのかなと、いまでは振り返れるようになりました^^
日本での就職活動
さて、やっと日本に帰国することを決めましたが、国際結婚したからといって、
アメリカ人の夫の滞在ビザが自動で手に入るわけではありません。
在留カードをもらうために、ビザ申請をする必要がありました。
そしてそのためには
「結婚がビザ目的の偽造結婚でないこと」
「夫婦に安定した収入があって、日本で暮らしていけることが証明できること」
が必要でした。
ビザのことを考えると、私か夫が就職している必要がありました。
普通に考えて、日本語をあまり話せない夫と、日本人の私では、私の方が就職の難易度は低い、ということで、生まれて初めて日本で就活しました。
自分で職務経歴書を書いて、自分でアピールした結果…何も通らなかったです。
就活する上で自分の軸というのも絞れないし、自分の強みや弱みも分析できていませんでした。
そこで、「ポジウィル」というキャリアコーチングのサービスに申し込みました。
ここでは就職活動以外にも、自分の思考の癖や、どんなときに働きにくさを感じるか、といったことをコーチに分析してもらうことができました。
ちなみに私は「こうあるべき」考えが強く、それに沿わない考え方を受け入れにくいということがわかりました。
仕事では「仕事内容」「クライアント」ともに、自分の想定外のことが日々起こるところではストレスを感じやすいと言われました。
逆に自分の努力が数字として結果にでることにやりがいを感じやすいそうです。
そんなことを分析していって、履歴書・職務経歴書をいちから書き直しました。
そのときの記録はこちらです。
そうして準備して臨んだ就職活動では、
アゴダ、東京海上、ハイアット…
名だたる企業で、めちゃくちゃ受かるようになりました。
このときの経験から、つくづく「見せ方」って大事だと思いました。
同じような能力でも、それがうまく「表現」できて相手に伝わって、初めて機会をえられます。
これって、オンライン日本語教師を含むビジネスと似ているかも、と考えていました。
就職活動で「オンラインで2000レッスン教えたんですか?」「kindle本を自分で書いたってすごいですね?」
「面白い子が来た」という感じで、面接官の反応がよかったです。
オンライン日本語教師をすることで、試行錯誤してきたことがこのような感じで役立つとは思ってもみませんでした。
働き方に正解がない分、リサーチ、戦略、見せ方、レッスンの内容、学生とのコミュニケーション、日々自分で考えて試行錯誤する必要があります。
がむしゃらにやってきたけど、振り返るとその過程もけっこう楽しいし、うまくハマったときにすごく嬉しく、手応えを感じます。
この「自分の人生を切り開いている実感」って、企業に勤めていると得るのが難しいだろうなと思いました。
そのあと合格をもらったなかで、一番条件の良かった某会社のカスタマーサポート部門で働き始めました。
月収33万円で、日本での仕事経験がなかった私からしたら好条件でした。
だけど、必死で「社会人として職場に慣れよう」と自分なりに努力していくうちに「この仕事スタイルに慣れなければ」というプレッシャーが大きくなってしまい、ついにまた「涙がとまらない」精神状態に戻ってしまいました。
ひとまずメンタルクリニックで「適応障害」と診断書がでたので、休職することになりました。
そしてこれからの人生、自分はどうしたいのかをずっと考える日々が始まりました。
![](https://assets.st-note.com/img/1722123639883-9RztYL3Wp0.png?width=1200)
「気分が落ち込む」
「自分は何も達成できないと感じる」
「ご飯を食べても吐き気に襲われる」
「夜眠れない、寝てもはっと目覚めてしまう」
そんな症状があり、
「いままでどうやって生きてきたんだっけ?」と思うくらい立ち直る糸口が見つかりませんでした。
夫にも親にもすごく心配をかけている自覚がありましたが、もはや自分の気力で直そうとするほど深みにハマっていく感じで、上手く抜け出せませんでした。
結局そのときの自分がだした結論は
「自分を会社が求める状態に無理やり変えて精神を壊すよりも、会社で働くことを諦めて、自分で挑戦して何ができるか模索できる生き方を選びたい」
という考えでした。
こうしてやっとの思いで入った会社を、たった3ヶ月で退職しました。
少し休んで回復したら、また教員にもどってもいいかな、と一瞬考えました。
でも組織に所属することがこんなに嫌だと何年も思い続けているのに、いままた「逃げ」のような形でもどっても、続かない未来も容易に想像できてしまいました。
いずれは子供が欲しいとかも考えているので、自分の思うように時間を過ごせるのはあと少しかもしれないと思うと、再び「自分の力で働く方法を模索したい。オンライン日本語教師の仕事が好きだし、自分の裁量で働ける環境を選びたい」と考えるようになりました。
いままで、その考えにいたっても続けられなかった理由を自分なりにかんがえると
「覚悟を決める」というところだったのではないか、と自分なりに考えました。
「いざとなれば教員に戻ってもいい」という甘い「逃げ」の考えをやめて、「自分はこうやって生きていく」という強い覚悟をもって取り組まないと、何も身にならないと反省しました。
その一歩として「何をしたいのか」と考えたとき、いままで楽しくて続けてこれた「オンライン日本語教師」に関わることで挑戦したいと思いました。
実は大学生の冬休み、2021年の末にkindle本のキャンペーンをして以来、しばらくの間ずっと放置してしまっていたのに、本が毎月まだ読まれていた、という状況がありました。
オンライン日本語教師をやってきた自分の経験をいかして挑戦することに「需要があるのかも」と思いました。
ただ「今度こそ、挑戦するからには全力で最後までできるととをやり切りたい」といままでとは違う覚悟があります。
振り返ると、自分がやってみたことは本当にたくさんあります。
でもその中で仕事として手応えがあったのが、オンライン日本語教師とkindleだけでした。
しかもkindleはカンさんの情報発信がなければ、書いて放置で終わっていたことでしょう。
これまでの失敗系経験から学んだことは、本気で何かを達成したい時ほど、
実績者に教えてもらうのが一番早く成長できるということです。
もう迷いはなかったです。
「カンさんに直接助けを求めよう」と門を叩きました
(公式ラインから問い合わせました)。
カンさんのスクール (LEGACY) があると教えてもらって、その場で「入りたいです!」とお願いしました。
適応障害と診断されたのは5月だけど、正直おそらく去年の11月ごろから精神状態がよくなかったです。
だからこんな状態で新しいことをはじめても大丈夫なのか、頑張れるのか、と一瞬思ったけど、
「ここまでメンタルがやられているのは理由がある。ここで自分の進みたい方向に人生の舵取りができなければ、何も変わらない。機会があるときに飛び込もう。」という気持ちでした。
実際に情報発信をはじめてからも、自分の課題がたくさん見えてきたし、
「自分にはできないのではないか」とパニックになって、
カンさん、夫、親、色々な人に助けられて今の私があります。
見捨てないでくれてありがとうと感謝の気持ちでいっぱいです。
今回の経験で学んだのは、精神が本当に落ちたあとって、自分のやる気だけではもとの状態に這い上がるのが難しい、ということです。
でも困難があったときは、この先出会う誰かの辛さや痛みを理解できるかもしれないと思うようにしています。
思考の癖、というか「気づいたらネガティブ思考に思想がのっとられる」感覚が強くて、もう元々の状態には戻れないのではないか、と怖くなるときもありました。
だけど、いままだLEGACY始まって2ヶ月だけど、カンさんとカンさんの周りにいる人たちの行動力のエネルギーに触れているうちに、
呪縛のような「怖い、動けない」の気持ちがかなり小さくなりました。
それに自分が情報発信していることに、答えて反応してくださる方々がいてくれて、「私にも伝えられることがあるかも」「相談してくれる人たちの期待に応えたい」と気付くとポジティブエネルギーが湧いてくるようになりました。
「自分を追い詰めないで、自分にスペースをあげる」ことなど学んでいるところですが、もう会社を辞める直前のような「何も食べれない」「起きている時は泣いてばかり」「夜になると今度は寝れない」の状態にまで落ちない自信がでてきています。
それよりも「できること」「自分の可能性を信じること」そのために「行動すること」に思考が切り替わってきています。
幸い、情報発信をはじめて、自分の発信にこたえてくれる方々がいてくださいます。
「相談会」をすれば、真剣に相談をしにきてくれる人がいて、「この人たちのために自分にできることってなんだろう」と自然とエネルギーが湧いてきます。
これから、いろいろ挑戦していく中で、もちろん失敗もすると思います。
でもこの前向きなエネルギーできっと乗り越えていきます!
私の根底にある思いは、
「人生の時間は限られている。
迷って立ち止まっている時間は戻ってこない貴重な時間。
やりたいことがあるなら、どんどんもがいて、一つでも多く経験をつみたい。
最後死ぬときに「やりきった」と思いたい。」
という気持ちです。
迷ったらやってみる!
どんどん人と出会う!
成長する!!!
見守っていただけると嬉しいです!
書いていて当時の気持ちを思い出してパソコンを閉じてしまいたくなる時もありましたが、私のことを少しでもより理解してもらえたら嬉しい限りです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
ミヤコ