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しばらく私の身体感覚が「家出」していたようです

最近読んでいる「かくれた次元」という本に、気になる一節を見つけたので今日はその文章から、最近感じたことを紐解いてみたい。

文化の体系が行動を根本的に根本的に異なる型にはめてゆくのは事実である。だが、それにもかかわらず、文化というものは、やはり生物学と生理学に深く根ざしたものなのだ。

人間は、驚くべき、そして非凡な過去を持った生物である。
人間は自分の体の延長物(extension)と私がよぶものを作り出したという事実によって、他の生物と区別される。

人間はこの延長物を発展させることによって、さまざまな機能を改良したり特殊化したりすることができた。コンピュータは脳の一部分の延長であり、電話は声を延長し、車は肢を延長した。言語は体験を、記述は言語を時間・空間内に延長した。人間は彼の延長物をあまりに作りだしすぎたので、われわれはともすれば人間の人間たるところが彼の動物的本性に根ざしていることを忘れがちである。

人類学者のウェストン・ラ・バールが指摘するとおり、人間は進化を自分の体からその延長物の方へ移行させ、そうすることによって進化の過程をおそろしく早めたのである。

「かくれた次元」p.7より(エドワード・ホール著)

この文章を読んだ時、「!」とまるでポケモンの敵トレーナーのような反応をしてしまった。(細かすぎて伝わらないネタかもしれない。下記みたいなやつ)

このブログ様より画像をお借りしました🙇‍♀️

百名山を狂ったように登りまくった私には、なぜかすごく、この感覚が腑に落ちた。

決して自分の身体をトランスフォームして機能拡張して登っていたわけではないのだが(そうしたい瞬間は山だけに山ほどあった)

私にとっての山登りは、ある意味、どこか自分の身体感覚を隅々まで取り戻す行為といえる気がしたのだ。

先日、日本三大急登と呼ばれる甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根ルートに挑んできたのだが、「落ちたらGOODBYE! MY LIFE」になりかねないハシゴ・鎖の難所をなんとか潜り抜けて、たどり着いた七丈小屋(山小屋)で、夜に眠りにつく前にこんなメモを書き残していた。

登山の効用
自分の身体の使い方、操り方が上手くなる。身体感覚を取り戻す。

全身をくまなく使える、手先指先まで感覚を研ぎ澄ませる。
次の一手はどこにかけて、足はどちらを先にどのように運ぶと常に安定した姿勢が取れ、安全を確保できるか。特定の鎖場やガレ場、岩場ではその緊張感を常に背負いつつも、思い通りに身体運びができて安全に通過できた時の感動は他では味わえないものがある。常に、また一つ身体感覚を取り戻せた?身につける?ことができたような気がして、ただただ嬉しくなる。

四つん這いになって、平地で両手と両足を全て使って行動することなかなかない。気分的にはカマ爺の気分

当日の登山日記より

・・・また大げさな表現をwwって思うでしょ。

黒戸尾根の登り途中、同じルートでの下山を諦めたポイントがこちら

この写真を見ても同じことが思えますか。

写真には収まってないけど、この左手下方から頼りない鎖を握りしめて、必死に上がってくるわけです。無理ゲーでしかない(おっと心の声が)

まじでどうやって登ったのか、いまだにこのポイントの記憶が曖昧です。

こういう時、登山では「3点支持」という姿勢保持(下記参照)が基本になるのだけど、要は、全身を使って登るような岩場を安全に上り下りするための必須動作なのです。

「山と渓谷」オンライン記事より引用

手がかり、足がかりになる岩の突起や割れ目を見きわめ、手足の4点が岩をとらえた状態から、どこか1点だけを動かす(残りの3点は動かさない)、という歩き方

「山と渓谷」オンライン記事より引用

つまり、本当に指先と足先の感覚まで研ぎ澄ませて、一つ一つ動かさないと「GOODBYE MY LIFE」になるのです。怖い。

百名山にはこんなイカれた岩場を持つ山が結構ありました。(皇海山とか剱岳とか飯豊山とか)

その度に「次はどの手足をどこのポイントに引っ掛けて、重心をここで支えて・・・」とひたすら考え続けることを強いられ、とにかく緊張の連続。

行けるかわからないなんて思ってたら、前に進めません。諦めたらそこで登山終了です(本当に危ないと思ったら良い子は引き返そうね)

なので、常に自分の先端の感覚を信じながら、一つ一つの動作をクリアしてきました。そこで思い出す今回の話。

人間はこの延長物を発展させることによって、さまざまな機能を改良したり特殊化したりすることができた。
・・・
人間は進化を自分の体からその延長物の方へ移行させ、そうすることによって進化の過程をおそろしく早めた

上記と同じ引用

こういう延長物を発展させまくった日常で生きているからこそ、私たちは自分の手先・足先の感覚を鈍らせてしまっている側面が大いにあるんじゃないか。

PCの打ちすぎで手先は発達しているかもしれないけど、その指先は岩場のちょっと先にある石の先を掴み、己の身体を支えられるでしょうか。

何が言いたいかって別に結論はないのだけれど、「かくれた次元」に記されたアイオープニングな文章と、険しすぎて2度と行きたくない岩場を経験したおかげで、普段PCとiPadのデジタル下僕な自分にとっては、登山という行為が日ごろなまり散らかした身体感覚を取り戻す上で、いかに大事なものかと痛感することができた。

私の身体感覚、通常は家出してんだな・・・
たまにこうやって「おかえり!」ってハグしてあげねばならぬ。

思わぬところでひらめいたことだったけど、こういう何気ない気づきというか備忘録を残そうと思えるのも、66日ライランに参加できたおかげですね。

・・・まだ初日だし、初日から23時前の投稿で先が思いやられるけど。

山は怖い、怪我をするリスクがある、と常に自覚を持ちつつ、今後も「ご安全に」山歩きを楽しんでまいりたいと思います!

喉元過ぎれば熱さを忘れる、というけれど、
あの険しい岩場だけは、喉元すぎても怖さは忘れません。笑


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