悪いひとでもいいの つらくされてもいい

悪い男、好きですか。わたしは、好き。

ここで言う悪い男は、勿論法を犯す的な意味での「悪い」ではない。その魅力によって女を虜にし、そのことに馴れている男。馴れているから、そのことをなんとも思わない。そういう男はよく、自分に焦がれた女を意図せず無間地獄に突き落としてしまうが、それもほとんどなんとも感じていない。もしかしたら、「可哀想だな」くらいは思うかもしれないが、実際に心を痛めたりはしない。強い光に濃い影が出来るのは世のことわり、というわけだ。

それでいう「強い光」であるところの彼らはけっこうケロっとしている。平気で女と女を渡り歩いたり、その女たちおのおのに、「きみだけだ」「きみしかおれを理解できる人はいない」と口にしたり、思いこませたり、できる。

くりかえすが、そういう男たちは法は犯していない。でも罪は犯している。しかしそれを裁く物差しは存在しないので、女は感情的にならざるを得ない。もしくは一切の感情を封じ、自分をとことんまで無価値化する。まあどちらにせよ、地獄だ。

ずいぶんむかしから、ジョージ朝倉先生のファンである。『溺れるナイフ』のコウちゃんがこのテの「悪い男」なのは言うまでもないが、現在連載中の『ダンス・ダンス・ダンスール』に出てくる海咲もなかなかの「悪い男」である。
まあコウちゃんが天然物だったのに対し、海咲は実に悪賢く、自分を演出することに非常に長けている、いわゆる「腹黒」なので、コウちゃんとはタイプがぜんぜんちがうのだが。

でもわたしは中学で同じクラスにいたら絶対に好きになってる。そのノーブルな顔立ちと痩せた体躯と、「京風爽やか仕立て」の物腰に、あっさり魅了され陥落し妄想の限りを尽くす。「裏の顔」なんて、とても見抜くことはできないだろう。わたしは実に童貞思考の女だ。津村記久子さんふうに言うなら、陽気なポチョムキン思考なのである(津村記久子さんは『君は永遠にそいつらより若い』で、処女のことを「女の童貞」または「ポチョムキン」と呼んでほしい、と書いていた)。
賭けてもいいが、わたしは、彼の視界にすら入らない。断言できる。ああいう上等は(海咲はプロのバレエダンサーを目指す、呉服屋のボンボンである)、嗜みとして、礼儀として、外面を繕うことを知っている。ぶつかったら「ごめんな、痛くなかった?」などと気遣うそぶりをみせるところまでがワンセットである。相手が誰であろうと関係ない。その証拠に、クラスの中心グループが主催になった会に、わたしはきっと呼ばれない。

けっきょく、悪い男というのは対岸の火事にしておくのがいちばんいい。近づくと焼き尽くされる。骨もまともに残らない。そういう男が屈服したり、まして自分に都合よく性格や振る舞いが変化するなんてことは、夢のまた夢だ。そんな日は、まず来ない。

ああ、でも夢見ちゃうよね、自分がそういう悪い男の「最後の女」になる、みたいなファンタジーを。中村うさぎさんも本の中で言ってた、女は誰しも「ナウシカ願望」を持ってるって。誰にも懐かない猛獣が自分だけに心を許す、とかに抜群に弱い時期があるって。あった、わたしにも、むかし、その願望。いまはもう目が覚めたけど、うつくしい自分好みの男がわたしを選ぶなんていう奇跡が起きたら、またあっさり目はくらむでしょう。

翻弄されているということは状態として美しいでしょうか、なんて、わたしは林檎さんじゃないから尋ねたりしない。機会さえあれば、骨すら残らぬ業火に焼かれにいきます。それは、どうあれ、望外の幸運だと思うから。

#日記 #エッセイ #ジョージ朝倉 #男


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