これからも臆せず自分の人生を書く
きのう締切の、「小説でもどうぞ」に出す小説、まにあいました。掌編はむずかしいなと思う。飾りをもっとたくさん鏤めたくなる。
小説って書き始めるまではなんとなく憂鬱なのに、書き始めると楽しくなるのはなんでだろう。とはいえ、締切に追われて必死こいて書いているばかりで、これは会心の出来、と思って出せた小説が近年ないので、締め切りに追われて出すものとは別に、納得いくまで書き続ける小説を並行して書いていこうかなと思った。やっぱり時間掛けると、ここもっと書きたかったな、とか、これは伏線になるな、とか思いつくんですよね。そのときはいいと思って書いても、あとから読むと何これ?おもんな、って思ったりするし。同じ人間が書いたとは思えない。
とくに春って気力が失せるじゃないですか。ぼうっとしてしまうというか。体が動かないというか。いわゆる木の芽時というやつの力なのか、この時期だけ頭がおかしくなる人がいるというのも頷ける。それでも必死に書いて締切には間に合わせてるけど、書きたくない日もある。書きたくないと思うことに、慣れないといけないと思う。書きたくない、でも実際は書く、という。それでいいと思う。仕事と一緒。仕事はしたくない、でも実際はする、という。結局、現状を変えるのは行動でしかない。
それに仕事なら、したくないと思うことに罪悪感はない。仕事は、感情とは切り離して、ずっと続けなければいけないことだ。嫌になるときだってあるだろう。同じように、書きたくない、と思うことに対しても、罪悪感を持つ必要はないのだ。わたしは一生書き続けるともう決めてしまったので、それはすなわち、自分の不出来に向き合い続けるということも決めたわけだ。そりゃ嫌にもなる。書けば書くほど自分に足りないものが見えてきて、足りないのはわかるのに、それを埋める方法はすぐにはわからない。自分で見つけるしかない。岸の見えない遠泳のようなものなのに、あっぷあっぷせずにずっと泳いでいろというほうが酷だ。
小説書きは、自分にとって楽しいだけのものではなくなったことで、次の段階に来たような気がする。わたしは天才ではないので、職業作家になりたいのだとすれば、書きたくないという感情を切り離して仕事として書き続ける能力が求められるだろう。何度だめ出しされても書き直す根性も必要なはず。その認識で、これからも臆せず自分の人生を書いていく。