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そこがいつ自分の通る道になるかは誰にもわからない

急に夏、きましたね。そういえば7月だった。なんか、忘れてました。毎日カレンダー見てるし日付も書いてるんだけど。まだ6月のような気がしている。自分の子供が学校に通うようになれば、プール開きとか夏休みとかで季節を感じることになるんだろうか。ならざるを得ない、というほうが正しそうだけども。

周りを見ていて、働く母親はみんな大変そうだと感じる。でも子供のいない人や子育てが終わった人も、むろんそれぞれに大変なのだった。自身や親の体調不良だったり、親や祖父母やきょうだいの介護だったり、出会いを求めて知らん人と交流して疲弊したり、仕事がどんどこ追加されていったり。

仕事の例だけ挙げても、たとえば子持ちで時短勤務の社員が時間の都合でやれない仕事を自分がフォローしているのに、大して感謝もされないうえ給与にもとくに反映されなくて不公平だ、というような不満がネット上で散見されている。この参考例について是非を問う気はないが、こういった不満は「確実にある」けども、決しておおっぴらには言えないものだ。なぜって、人非人みたいになってしまうから。だから、それを相手に直接言わず、ネットでガス抜きして現実社会に持ち込まないというのは、だいぶ大人の振る舞いと思う。

それはそれとして、その人の境遇や立場に基づいて他人を責めるのは、最終的に自分の首を絞める可能性があるので、わたしは極力しないようにしている。
先ほどとは別の例を挙げると、たとえばわたしは今のところ健常者として生きているけれども、いつ病が襲ってきて障害を持つことになるかわからない。自分がいつ助けてもらう側に回るかは誰にも予測できない。だから優生思想には反対だし、社会保障を削ろうという気にはならない。自分が今通っていないからといって、他人が行く道に糞を並べてはいけないと思う。そこがいつ自分の通る道になるかわからないから。

各々のしんどさは、可視化できない。だからこそ、もちつもたれつ、ギブアンドテイクの精神を持っていたいと思う。わたしはもらったぶんだけ返そうとするマッチャーというやつなので、もらいすぎてもあげすぎても疲れる。自分のためにも他人のためにも、しんどさも嬉しさも分け合って、社会生活を送ろうと思う。

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