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書くことは生きること

女の作家はその出来事がひと通り過ぎ去って、文字通り過去のものになってから小説に書くのに対し、男の作家は自分に起こっていることをリアルタイムで書きたがる、とは、むかし林真理子さんのエッセイで読んだ話だ。林さんの言葉ではなく、林さんと話した誰かしらの言葉だったと思う。まあ現代を生きる作家のことはいざ知らず、谷崎とか太宰とかもろに、そうだものな。

この話が正しいと仮定して、さてわたしがどちら側の書き手かというと、これが男の作家側なのだった。いま好きなもの、いまの惨めさ、いまの怒りを、書きたい。わたしが過去作じたいや過去作の続編を書くことにあまり関心をもてないのは、「いま」に執着しているからだろう。わたしは、いま、夢中になっているものを書きたいのだ。いま書かないと、色褪せてしまう。色褪せたものを書くのは苦痛なのだ。どうしても。

わたしは自分の書き終えた人物に強い愛着を保てない、ということも、自分が小説を書いていくうちに気づいたことだった。『細雪』を書き終えた谷崎潤一郎が、幸子のモデルであった最後の妻・松子から、息子の嫁である渡辺千萬子へどうしようもなく気持ちが移ろっていったように、わたしも、書き終えるとそのモデルとなった男や女に対する執着をうしなう。憑き物が落ちるというのは、きっとこういうことであろうなあと思う。

小説を書いて生活がしたいと思っていた。でも、まだ足りないのだろう。書き続けるしか道はない。わたしが、誰からもとらわれない「わたし」であるために、ぜひとも書き続けなければいけない。

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