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斎藤一と帝大医師
新人物往来社編『新選組・斎藤一のすべて』に
斎藤一年表が載っています。
ハジメさん最晩年の欄に
「大正4年(1915)。斎藤は帝国大学
三浦病棟から退院したが、胃潰瘍で死去。」と
書かれてあります。
ハジメさんの妻・トキヲさんが、夫妻の三男龍雄に宛てた手紙が残されていて、そこにハジメさん最晩年の様子が記されています。
「御病気は一時とてもむつかしくと存じ、まずまず大学病院三浦内科の医局長広瀬と申す方も、六月二日に来診乞い……」
さて、このトキヲさんの手紙に書かれた大学病院三浦内科を作った三浦謹之助が、私の一族の人だと判明しました。
三浦の妻の父である三宅秀(ひいず)という人は、私と血のつながった先祖なのです。
といっても私は秀の直系子孫ではなく傍系の人間なのですが、ここでは便宜上子孫という言葉を使うことにします。
正確にいいますと、秀の直系先祖と私の直系先祖が実の兄弟同士という関係です。
今回載せたこの写真。幕末好きには有名な「サムライスフィンクス」と呼ばれるものです。
「世界・ふしぎ発見!」でも取り上げられて、一般の方にも多く知られることとなりました。
この写真には三宅復一(またいち)と名乗っていた少年時代の秀が写っています。
残念なことに秀は撮影時に動いてしまい、スフィンクスの肩のあたりにうっすらとした影として写っているという写真になってしまいましたけれど。
この秀が後に医師となり、東京大学医学部長に就任します。
斎藤一はその最晩年、東京帝国大学内科医広瀬の診察を受け、その広瀬の上司三浦謹之助は三宅秀の娘婿だったというわけです。
ハジメさんが東大病院に入院していたのなら、教授回診を受けていたのかもしれません。
つまり三浦医師がハジメさんを診察した可能性が高いのです。
ハジメさんが入退院、そして死去した大正4年当時、東大総長を務めていたのは会津出身で「白虎隊総長」と呼ばれた山川健次郎。
健次郎の兄で戊辰戦争時に家老職を任じられていた山川大蔵(浩)は、ハジメさんと生涯に渡る友情を結んだ人。ハジメさんの妻トキヲさんも会津藩士の家の生まれです。山川家、斎藤(藤田)家は幕末から深い繋がりを持つ人たち。おそらくハジメさんの入院時には総長らが手を尽くしたのではないでしょうか。
それにしてもなんということでしょう…。
ハジメさんを調べることから始まった私の家系調査は幕末から戦国へさかのぼり、そしてまた時代をくだり、ふたたびハジメさんと出会ったのでした。