島原で その2
S田家を後にして、長崎市内から島原鉄道(通称・島鉄)に乗り島原市へ移動しました。
島鉄も他の過疎地域の鉄道会社と同じく利用者の
減少により路線短縮、便数も減り、島原への交通の便は悪くなってきているそうです。
島原半島と天草諸島に属する雲仙天草国立公園 は、日本ではじめての国立公園指定を受けた地域です。
雲仙の温泉街は、以前は日本人以外に外国人観光客も多く訪れてとても賑わったそうですが、近年は客足が減少しているそうです。
世界ジオパークに認定されたほどの風光明媚なところなので、島原天草地方の良さがまた再評価されて欲しいところです。
島原駅正面の道の突き当たりには島原城がそびえて建っています。
やっと島原に来れたと、感慨ひとしおでした。
小さな町に不釣り合いな高さの島原城を見上げていると、この町で380年ほど前に幕府を揺るがすほどの凄惨な事件が興ったことを思い、ちょっと寒気がしてきました。
島原の町は人通りも少なくほんとに小さな町で、どこにいても目の前に恐ろしいほどの近さで山が
迫ります。
30数年前の雲仙普賢岳の大噴火の時にはどれだけ恐ろしかったことでしょう。
現在の島原は町並みも綺麗になり水路には透明な
水が流れ、人が少ないのも散歩するにはちょうどよく、できればゆっくり観光で訪れたいと思わせる町でした。
島原城内に図書館があり「肥前島原 松平文庫」が設けられています。
島原藩主松平家が収集していた古典籍が保存されており、私はこちらに藩士名簿の閲覧予約をしていたのですが、なんと館長さんみずから探してくださることになりました。
私の父方曽祖父は三宅家の跡取り娘と結婚し、養嗣子になりました。実家は中村家といいます。
その中村家を調べているうち、別当中村家屋敷 というものがあったことを知りました。
この別当職の中村家というのが私の曽祖父と何か関係があるのではないかと思い、島原藩の藩士名簿を探そうと思ったわけです。
長崎に来る前の調査で、三宅家は血族を守るために代々血族婚を繰り返していたということがわかっていたので、曽祖父の実家というのもおそらく島原藩士の古い家だろうと見当をつけたのです。
図書館で藩士名簿を繰ってみると、中村という藩士の名を見つけ、しかもその人物は島原藩の医療関係の仕事をしていたことがわかりました。
さらにその中村家の子孫の方が自家の歴史をまとめた『中村家の歴史』という本があるのを見つけました。
その本には曽祖父のことは出ていなかったのですが、別の先祖のことが記されてありました。
その先祖は医師だったのですが、その後辞めて長崎市・諏訪神社の神官になったという人です。
諏訪神社というのは長崎くんちという大きなお祭りがおこなわれる有名な神社です。一度テレビ中継されているのを見たことがあります。
その神官になった先祖は文章や絵が得意な人だったらしく、神道関係の書物を何冊か出版しています。
絵はどこかの神社だか寺院で壁画だか天井画だかを描いたらしいのですが、原爆で消滅してしまったそうです。
その人は中村家が宗旨替えをして仏教から神道にかわった時に、大々的に行った祭祀を取り仕切ったということが『中村家の歴史』に書かれていました。
島原藩には別当職というものがあり、中村家はその別当職を勤めていたこともわかりました。
別当というのは、農民の世界でいう名主とか庄屋の侍版のようなものだそうです。
城下をいくつかの別当職の家がとりしきり、中村家は別当職筆頭の家で、屋敷は本陣として使われていました。
幕末には坂本竜馬を連れた勝海舟も宿泊しています。
中村家出身の幕末の志士・北有馬太郎(本名・中村貞太郎)という人の生涯を描いた『漂泊の志士 北有馬太郎の生涯』という本があります。
この本は小説ですがノンフィクションのような内容で、北有馬太郎の日記が多く引用されています。日記自体も現存します。
その日記に「北有馬の叔父甫助に会う」という記述があり、中村甫助という人物をうちの除籍簿で見つけました。
年代、北有馬という場所、他の人物との関連等を
調べてみて、中村甫助と北有馬太郎とが親類であることが判明しました。
この北有馬太郎の実家中村家の本家が、別当職筆頭の中村家であることも確認できました。
曽祖父の家系がわかったことは、島原行きの大きな収穫の一つです。
で、この北有馬太郎という人。なんと清河八郎の「虎尾の会」のメンバーだったのです!
あの新選組結成のきっかけとなった浪士組を画策した清河ですよ!
こんなところでまたうちの先祖が新選組とちょこっと繋がってしまいました。
なんだかボーゼンとしました。