島原で その1


大阪・伊丹空港から長崎空港へ。
大河ドラマ龍馬伝の年だったので、長崎空港は龍馬一色でした。
2010年。もう14年も前のことです。

島原入りの前に三宅病院院長の親族にお会いするため、大村市にある長崎空港から船に乗りこみ、長崎市内に向かいました。
この日は晴天で、約30分の大村湾クルーズを楽しみました。


長崎市側の港まで、三宅院長の甥にあたるS田氏が車で迎えに来てくださっていました。
閑静な住宅地にあるS田家にお邪魔すると、S田夫人がご馳走を用意して歓迎してくださいました。
はじめてお会いしたにも関わらず、S田ご夫妻は
私を大歓迎してくださり、たくさんお話を伺うことができました。


S田氏は島原三宅病院院長の姉の長男にあたる方です。院長のもっとも身近な親戚にあたるため、院長が亡くなった後、病院や個人の遺品の整理をされたそうです。


院長は跡継ぎを残さず急死されたため、後を片付けるのがとても大変だったそうです。
病院というのは劇薬などを含む薬品を置いている
ため、管理者がいなくなると当然営業はできず、
すぐさま閉鎖しなければならなかったので、個人の遺品もゆっくり整理する余裕はなく、まとめて業者に引き取ってもらったそうです。
中には家系に関する貴重な資料もあったかもしれないが、今となってはもうわからないということでした。


S田氏のお話でわかったことは、三宅家は侍の家だが島原藩士ではないということと、三宅秀の
子孫であるということの二つでした。
三宅院長は三宅艮斎の兄弟の直系子孫だということが、S田家の家系図と除籍謄本によりわかりました。
艮斎は江戸へ出て行きましたが、島原北有馬村に
残った兄弟の子孫がS田氏というわけです。


島原・南有馬村に三宅元哉という医者がおり、その長男玄碩が北有馬村に分家しました。
玄碩の子どもで、北有馬村から江戸へ出たのが艮斎。
元哉の次男で、次男でありながら南有馬の家を継いだのが文泰。
文泰の直系子孫が私です。


三宅院長の姉が嫁いだS田家というのは、なんと
あのキリシタン大名大友義鎮(宗麟)の支族だそうです。
S田家の家祖は大友駿河守という人で、耳川の戦いのあと居を構えた土地の名から、S田と名乗るようになったとか。

S田家の明治維新の頃の当主は島原藩大参事となり、その後日光東照宮権宮司になられたそうです。
会津藩主松平容保公が日光東照宮宮司となられたのと同じ頃のことでしょうか。
容保さまと関わりがあったりしたら嬉しい!

余談ですが、大友宗麟といえば遠縁の子が、天正遣欧少年使節の一人、伊東マンショですね。
家系調査をはじめてみて、ひとつどこかをつついてみると、次々に知っている名前が出てきて、それがおもしろくてやめられなくなっています。


S田氏のお母様はすでに亡くなられていて、その遺品の中に家系図があったそうです。
ありがたいことにその複写をいただきました。
島原の郷土史などから三宅家の先祖は熊本から
来たということがわかっていたので、その家系図をもとに熊本藩を調べてみることにしました。


お話をうかがったあと、車で10分弱ほど行ったところにあるS田家のお墓へお参りしました。
S田家のお墓の隣には、島原から移された三宅院長のお墓もありました。

三宅院長の名前のお陰で、島原のどこへ行ってもスムーズに調査を行うことができたし、院長が長年にわたって続けてきた研究のお陰で、三宅藤兵衛と島原三宅家の関係を後日証明することもできました。


S田氏からいただいた家系図は、近年誰かによって調査され書かれたもののようで、それはおそらく院長の手になるものだと想像しています。
島原入りの前から院長の名前が私の前に現れて、行く方を教えてくれているように調査が進んでいきました。
お墓にお参りできて感激でした。

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