或る海辺の現像
「春の海って意外と寒いんだな」
知っているよ。
半袖のシャツがひたひたに染まりながら、彼は声高らかに笑った。嘘臭いはしゃぎ方をする背中を、僕は数メートル離れた場所に座り込んで眺めている。
彼は下半身まですっぽり浸かる程度の海辺に立ち、砂浜にいる僕へ手を振る。僕はそちらへ歩み寄らない。ここから立たない、という約束だからだ。十七時四十五分。
「流石に気が早かったかな、せめてパーカーでも着てくりゃ良かった」
「そんな時間、無かっただろう」
僕は煙草に火を点けた。彼は煙を吸うと咳き込んでしまうから、いつも一人でいる時にしか吸わなかったけれど。ここなら風下だし大丈夫だろう。
濡れたジーンズが中途半端に乾いてきて、少しむず痒い。
「いま何時?」
「十七時四十七分」
「じゃああと三分くらい?」
「そんなにきっちりかは分からないよ。とりあえず転ばないようにな」
手持ち無沙汰な僕は拾い集めていた石ころを一つ持ち上げ、波打ち際へ投げた。ぽとん、という可愛い音は彼のところまで届くのだろうか。
煙草の灰を零しながら、僕は考える。
春を越えて夏になってからここへ来たかった。けれどそれでは遅いのだろう。軋んだ音が撃たれた雉のような声を上げる前に、僕はそこから掬い上げた。
彼はもうとっくに、撃たれ尽くした。なのにどうして、誰も彼を赦してくれないのだろう。ならばどうして、誰も彼を救ってくれないのだろう。
時計を見る。十七時五十分。おおよそ二十分くらいで効き始めると思うのだが、彼はまだ飛沫の中で足を躍らせている。
「どうせならお前に見ていてほしいんだ」
崩れるような血の中で、彼は笑った。いつも笑っていた。もう笑わなくていいのに。そうまでして笑ってほしくないのに。益々己の無力を殺したくなる。
「でもって、綺麗な景色がいいよな」
それなら、海が良い。子供の頃よく行ったから。
「あと痛いのはやだ」
大丈夫、親戚のツテで貰ってきたから。
「お前がいてくれて良かった」
だから笑うなって。笑うたびに僕は泣きそうになるんだよ。
「あ、やばい。来たかも」
ふらり。踊り踊った足取りが急に定めを失い、デタラメな角度で身体が彷徨い出す。ここから彼の表情は朧げにしか見えないが、恐らく眼球運動に揺らぎが生じているはずだ。つまり目の焦点が合わなくなっているだろう。三半規管も鈍りだし、判断能力の欠如も起こっているはずだ。彼は今、海に向かって眠りにつこうとしている。
手元の石を拾い、また投げた。この石ころたちは、彼の足首につなぐついでに拾ってきた。ただ海に立っていたって溺れやしない。
水面に倒れ込んでも浅瀬へ流される。確実に、その瞬間に死にたいのなら余計な重力が必要となる。だからその足首には重石をつけてある。もうどこへも、彼が攫われることの無いように。
彼の立ち位置まで一緒に運んだものだから、僕も中途半端に濡れてしまった。寒いな、と思いながら一緒に運んだんだ。
「あ、あ、俺、行くかも」
僕は立ち上がった。十七時五十二分。夕日が沈む。君の向こうへと。
「ありがとな、水世」
ぐるり。彼の眼球が何も無い空へ向く様が、見えずとも想像できた。
ぱしゃん。その音は僕の方まではっきりと聞こえた。睡眠薬が作用し、彼は眠りに落ちた。
こちらを向いて気を失ったが、波に足を取られたのかうつ伏せで水面に突っ伏したようだった。
このまま放っておけば、僕達の目論見どおり呼吸困難に陥って死ぬ……と思う。しかし酸欠というのは想像を絶する苦しみを伴うもので、酸素が無くなった瞬間に覚醒してしまうかもしれない。それに死へ至るには余りにも不確かな方法でもある。
彼は言っていた。
「お前に迷惑をかけたくないんだ」
代わりに僕は、君を喪うその瞬間まで傍にいた。でも君が本当に救われるためには、やはり誰かが手を差し伸べるしか無いのだ。
僕はポケットからナイフを取り出した。
水中にいる状態で切り傷が出来ると、地上にいる時と違って過剰に出血する。赤血球やら何やらが表皮を覆い、出血の穴を塞ぐことが困難だからだ。
僕が彼の手首あたりを切り裂けば、眠ったままに失血死が出来る。気を失っているのだから、痛みを感じずに逝くはずだ。
僕はもう一度、海へと足を踏み入れた。やはり春の海は、思ったよりもずっと寒い。そんな寒いところで、君は一人ぼっちで死んでしまうのか。
途端に彼を愛しく思った。あるいは哀しく思った。どうして死という対価を払ってなお、彼は孤独を強いられるのだろう。
僕は考える。ナイフを握っているのは僕なのだと。この先僕がどうなろうと、彼はもう止められない。僕もまた、僕を止められるかは分からない。
君ばかりが失い、悲しむ日々を繰り返していたのだから。
僕はただの傍観者にしかなれなかったのだから。
「お前がいてくれてよかった」
違うよ、僕は君のために何も出来なかった。
せめてこれから、君のために。君の受けた痛みのほんの僅かでも、僕も背負いたいと思う。
僕はナイフを握りしめた。
もう一歩、彼の眠る水面へ近づいてゆく。
下半身がゆっくりと海水に染められてゆく。
体温がじわりと奪い取られてゆく。
君はそこに眠っている。
僕はナイフを持っている。
切り傷が二箇所になったとしても、誰も僕らを見つけないだろう。
僕は海の中へと歩いてゆく。
夕日は殆ど、見えないところまで潜っていた。