ポイズン
僕が若い頃、反町隆史さんの歌に「POISON」という曲があった。その歌詞の中に、こんなフレーズがある。
ここ最近、不思議とこのフレーズばかりが頭を過ぎる。
最近のコロナ問題が原因だろうか?
それとも窮屈な時代のせいか?
理由はわからない。
子供の頃ってのは、今思えば凄く自由な時間を過ごしてたんだと思う。だって、思ったことは何だって声として出せたし、声に出したところで「所詮、子供のたわ言」だと思われて終わるわけだから。
だから、自己主張の強めの僕は、「思った事」をよく声に出して主張したもんだ。それが誰かを傷つけてるとか、そういうのを気にもしなかった。
子供って、そんなもんだろう?
でも、自分ではそんな子供の頃は、なんとも「不自由」だと思っていたもんだ。だって、何かやりたくても「行動に制限」がかかるから。
僕は、早い段階で母子家庭となった。小学校3年生の頃だ。
奇しくも僕の娘の今の年齢の頃に僕はそうなった。
別に、あの頃は、それに対して何かストレスを感じた記憶もない。
「ああ、僕はお母さんと一緒に暮らすんだ」
本当、その程度の感覚だ。
そこからかな?
少しずつ言いたい事を声に出すのが難しくなってきたのは・・・。
新しい家に引っ越した日、母親から言われた言葉がある。
「お兄ちゃんがしっかりして、弟の面倒を見るんだよ?」
そう言われた。
きっと兄弟がいる家では、よく耳にする何気ない言葉だ。
でも、僕にとってはその「しっかりする」という言葉が、大きな塊のように乗っかって来たのを覚えている。
「僕がしっかりしないといけない」とね?
そこからは、少しずつだがお節介なヤツになって来たもんだ。
授業中、先生の頼まれごとで職員室に何かを取りにいく事があれば、わざわざ弟がいる教室の横を通って行ったものだ。
別に、何かをするわけではない。
ただ、元気にやってるかが気になっただけだ。
友達とうまくいってるか?
先生に怒られてはいないか?
何か、忘れ物して泣きそうにはなってないか?
そんな事が気になってね。
ほんと、それだけ。
実際、弟の方は、僕以上に出来の良いヤツだから、そんな心配は杞憂だった。
いつ教室を見にいっても、友達に囲まれてるし、教室の真ん中でみんなを笑わせてるし、忘れ物どころか、忘れ物したヤツに助け舟を出すようなヤツだったよ。
逆に僕の方は、いつも「できるヤツ」を演じようとしてたなーと思う。
できない事が嫌だった。
バカにされるのが嫌だった。
いつも勝ってないと嫌だった。
うまくいかない事が起きると、これを超えるまで徹底的にそれに時間を割いた。それが得意なことじゃなくても、嫌いなものであっても、関係なかった。
だから、傍目から見ると出来るヤツに見えていただろうね?
今、思えばもう少し楽に過ごしても良かったんだろうけど、自分が「しっかり」しないとダメな気がしたからだ。
ただ、不思議と大人になるとそういう物にも慣れてきた。
というよりも染み付いてきたという方が正解かもしれない。
別に、それに対して苦だと思った事もないし、大人になるってそんな物だと思ってた。
決して嫌なことをやってるつもりもない。自分のやりたい事をやってるつもりでもあった。
でも、時間がたつに連れて、どんどん思ったことを口に出すのが難しくなった。
それは、年齢のせいなのか、立場の問題なのか、僕にはわからない。
ただ、1つだけわかってるのは自分の主張というのは、相手を傷つけてしまうこともあるということを理解したことだ。
お互いの正義があって、それぞれの主張がある。
対等でない場合、強い立場にいる人の方の主張が相手を傷つける事になる。
争うのが好きじゃない僕にとっては、
「最初から黙ってた方がメリットがある!」
そう思って飲みこむ事が多くなって来た。
でも、どうやらそれが「毒」として残るらしい。
最近、色々な場所で、色々な大人が怒ってる。
きっと、みんな我慢してるんだなー?と思う。
「なんだよ!言いたい事、言えば良いじゃん!?」
そう語る人も最近出て来たんだけど、僕には正直、難しい。
多分、それだと「しっかり」してないから。
そういう意味では「しっかりする」という事って、良い言葉じゃない気がする。
でも、それでも僕はしばらくは「しっかり」と生きる道を選ぶと思う。
理由は、わからない。
でも、しっかりしないという生き方が正直わからないんだ。
最後に、もう一度、POISONという曲の歌詞を思い出す。
この歌詞の続きにはこう書いてある。
・・・・
僕は、僕を騙して生きてるんだろうか?
それとも、こうして綴ることで、
なんとか、騙さずに生きていけているのだろうか?
もう少しだけ、考えてみようと思う。
てつろう
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