【小説】クランベリージャムをひとつ
「ろくに料理もしないくせに、そんなもの買ってどうするのよ」
「料理しないからこそ、こういうところでいいものを買って食べるの」
木の匂いがするジャムの専門店に、私たち以外の客はいなかった。
彼女は真っ赤な瓶を手に取る。イチゴのジャムよりもっと鮮明な赤の、クランベリーのジャムだ。
裏のラベルを見るためか、彼女は片手で瓶を回す。店の中の蛍光灯を反射して、瓶の縁がつやりと光った。
「ちょっといいジャムくらいなら、東京でも買えるじゃない」
「いいの、これは自分へのご褒美だから」
彼女は自分に甘い。いや、自分を甘やかすすべを知っている。
そんな彼女に「週末に軽井沢へ行こう」と唐突に誘われ、断る理由がないというだけで承諾した私も、彼女に甘い。
彼女は紅葉がきれいだからともっともな理由を話したけれど、それは明らかな嘘で。紅葉の見頃は過ぎ、夏の避暑地はすでに冬の、冷たい空気をまとっている。
そもそも彼女は、庭園などを見て回ろうともしなかった。ただ、ホテルから出ずに美味しい夕食を部屋で食べ、温泉につかり、一歩も外へ出ずに初日を過ごしただけだ。
そんなの、いつもの休日の過ごし方とたいして変わらない。ふたりで暮らすマンションの一室で、お茶を飲んで本を読んで、夜が来るのを待って、ごはんは特別に出前をとって。
華やかな見た目とは裏腹で、籠もりがちな仕方のない人。
いまこうやって、本通りを歩いて土産を見てまわっているのも、帰りの新幹線までの時間をつぶすためだけ。
その自分へのご褒美だって本当は、たいしてほしくもないんでしょう。
「ご試食されてみます?」
物腰柔らかな店員が、小さな木製のさじでジャムをすくい、クラッカーに乗せて渡してくれた。まずは彼女に、そして私に。
彼女は、私が食べるのを待ってから、小さなクラッカーを口に運んだ。
「ほら、美味しいでしょ?」
最初から知っていたかのように、自慢げに話す彼女に少し腹が立つ。もしかして、前にもここに誰かと来たの?
でも確かに、口の中は鮮明で爽やかな甘酸っぱさで満たされ、柔らかく潰れる果肉の食感を感じた。
悔しいけど、美味しい。これは買って帰りたい。暖かい家で、このジャムを塗ったトーストを彼女と食べたら、それこそが「幸せ」というものな気がする。
「ねぇ、帰ったらさ。パンケーキ作って、このジャム乗せようよ。むせかえるくらい、出来たてのパンケーキをほおばりたいの。
それか、ミートボールのクリームソースがけを作って? このジャムを添えたら、スウェーデンのごはんみたいになるわ」
「それ、なんの影響?」
彼女は、ふふふと可愛く笑う。彼女がなにかを食べたいと言うとき、それはだいたい、何かの影響を受けたからだ。
歌か、テレビか、友人の話か。その中で、気に入ったか興味を持ったもの。彼女は情報でものを食べる。気になるものがない時はなにも口にしたがらないから、ほら、瓶を持っている手指は折れてしまいそうな細さ。もう、本当にだめな人。
「じゃあ、買ってくるね」
そういって彼女はレジへ向かう。
さっき試食をくれた店員となにやら楽しそうに話して、なかなか会計へ進まない。
先に外へ出て少しすると、小さな紙袋をちょこんと持ち、彼女が出てきた。
「帰ろうか」
そう声をかけると、そうねぇ、と気のない返事が返ってきた。この場に残りたくも、帰りたくもなさそうな彼女は、いったいどこへ行きたいんだろう。
「うう、寒い!」
駅までの通りを2人でゆっくりと歩きながら、彼女は私の腕を取り、自身の腕を絡ませた。コート越しには暖かさも柔らかさも、ろくに伝わらない。
腕を組んだままお互いに黙って歩く。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「なんで私たち、もっと悠々自適に生きられないんだろうね」
奔放な彼女は、これ以上なにを望むのだろう。好きな仕事をして、好きなものを食べて、人から好かれて、2人で暮らして。
私にとっては、十分すぎるほどなのに。
「……よくばりだからじゃない?」
「そうかも」と乾いた笑い声をあげた彼女は、
私を見ずに、瞳に寂しい街を映していた。
【完】
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