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ア・セレモニー
スマホから鳴り響くうるさいアラーム音で朝起きると、眠気眼を擦りながら洗面台へよたよたと歩く。
歯ブラシにたっぷり歯磨き粉をつけて、適当に手を動かして歯を磨く。知り合いの歯科助手に「歯磨きをするときは歯ブラシは濡らさない方がいい」ということを聞いていたので、ここ最近はその言葉を信用して、濡らさず歯磨き粉をつけた歯ブラシを、そのまま口の中に入れることにしていた。
十分くらい歯茎も含めて歯を磨き終わると、口の中に溜まった唾液と歯磨き粉の混ざった液体を洗面台に吐き出して、バシャバシャと顔を洗う。そのままタオルを濡らして、タオルを寝ぐせに押し付けながら整えていく。
洗った顔を拭き終わると、布団に置きっぱなしだったスマホを拾って、トイレの中に入って便をしつつ、適当にニュースを読んだりSNSを確認したりした。
あまりお行儀のよくない習慣なのはわかっているが、トイレの中で手持無沙汰である、というのが落ち着かないので、ついついスマホなり本なりを持って行ってしまう私だ。
昔何度か、妹なんかには「信じられない。お兄ちゃんのスマホ絶対にさわらない、っていうかスマホ触った手で触んないで」なんてことを言われたこともあるけれど、そもそも確かスマホについている雑菌は便器の数百倍だとかなんだとか聞いたことがある気がする。
トイレから出て手を洗い、冷蔵庫の中から牛乳を取り出す。賞味期限が今日ギリギリなことに気づいたが、まだだいぶ残っている。
使えるだけ使った方がいいな、と台所の引き出しからチョコフレークを取り出して、お椀いっぱいに牛乳を注ぎ、その上からチョコフレークを浸した。
テレビをつけてもいいけれど、嫌なニュースでも見てしまって気分を沈めたくないので、いまだ我が家では現役のラジカセに入っているサウンドトラックを再生した。その間、少しだけ充電を使ってしまったスマホは充電しておく。
昔から朝は弱い方ですぐに気持ち悪くて吐きそうになったり、油断しているとすぐにトイレに駆け込む羽目になりかねないので、フレークはいっぱいで我慢しておく。代わりに外でモーニングコーヒーと朝ご飯としゃれこむとしようじゃないかと、昨日からテーブルに用意しておいたTシャツとジーンズに着替えて、玄関から車の鍵とマスクを手に取って、外に出る。
ちょうど太陽が頭上でらんらんと輝いていてまぶしい。目を細めながら車に乗って、エンジンキーをかけた。
車で五分とかからないところにある近場の喫茶店で、お勧めのブレンドコーヒーを頼み、席に座った。朝一で行っても大抵は近所の団地のおじいちゃんおばあちゃんが来ているので、ぽつぽつと席は埋まっているのだが、私は決まって入口を入って右にある、観葉植物で隠れた席に座ることにしている。単純に落ち着くから、というだけの理由だ。
何度も通ううちに店員にも顔を覚えられていて「あそこの席、空いてますよ」と言ってくれることもある。特に何か話をするわけでもないが、その程度の気遣いはそれなりに心地よい。
私は席につき、無料の豆菓子をもらって、ポリポリと口に運ぶ。
急ぐこともなく、焦ることもなく、コーヒーを飲む時間は落ち着く。正直、コーヒーの味なんてわかる方じゃないが、喫茶店というものは、こういう時間と空間に対価を払っているのだと思う。
コーヒーを飲み終えて、ご馳走様と小さく声に出して店を出る。
車を走らせて、釣り場に向かった。体力の余裕があれば釣り竿も貸してもらってニジマスを釣るのだけれど、今日はそこまでするつもりはなかったので、受付のおばちゃんに頼んで、アユを焼いてもらった。塩をたっぷりと振って焼いたアユは、骨まで柔らかく、頭以外の部分は余裕で食べれてしまう。
釣り堀前のベンチに座り、そんなおばちゃんが焼いてくれたばかりのアユを食べる。晴れ晴れとした空の下食べる、焼き立ての川魚は、最高に贅沢な朝ご飯だと思っている。
アユの頭だけを残し、串ごとゴミ箱に捨てて、また車を走らせた。
車に乗っている間、お気に入りのポッドキャストをカーステレオで流す。
最近気に入っているのは、元鉄道技師だというお笑い芸人が、そのマニアックな知識を披露する番組で、そのお笑い芸人の名前は、ポッドキャスト以外で聞いたことがないし、コントも見たことはないのだけれど、フェチズムたっぷりに鉄道について語るその語り口が気に入っていて、毎週必ず聴いていた。
大体一回分の放送を聞き終わるか聞き終わらないかといったうちに、目的地のショッピングセンターについた。時計を見ると、まだまだ時間には余裕がある。道が渋滞していた場合も想定して早めに出たとは言うものの、思ったより車も混んでいなかったので、かなり早めに着いてしまった。
君はいつもはのんびりしている癖に、いざという時は早く来すぎるのが面倒だよなあ、と先日別れたばかりの元カノの言葉を思い出し、うっと吐きそうになった。
全く、ここまで順調だったっていうのに。
私は思わずため息をついた。仕方ないから気分転換だ、と鞄の中に入れてあったシネマ雑誌を取り出した。後で読もうと思っていた、俳優と監督のインタビュー記事をまだ読んでいなかったので、今のうちに読んでしまおう、と思う。
十分前くらいにはちゃんと全てを準備しておきたいので、スマホの時計アプリを起動して、適当な時間でタイマーをセットした。
時計をちらちら確認してもいいけれど、一度集中してしまうと時間を忘れてしまうのが癖なので、こういう時は必ずタイマーをかけるようにしていた。電車に乗っていても、本を読んでいて駅を乗り過ごしてしまうのもしょっちゅうだ。さすがに電車内でタイマーをセットするのは迷惑で非常識だが、こうしてプライベートな時間はできるだけ失敗しないように気を付けている。
タイマーに追われて生活するのってなんか煩わしくない? とは同僚の言だ。確かに少し窮屈さはあるかもしれないが、ゲームみたいなもんだと思うと楽しめるよ、とその時は返したと思う。
お目当てのインタビュー記事を読み終えて、時計を確認しようとしたら、ちょうどピピピとタイマーが鳴る。タイマーを消して、雑誌を鞄の中にもどし、財布なり腕時計なり忘れ物がないかをちゃんと確認してから車を出た。
ショッピングセンターの入口まで向かう間、映画チケットのスクリーンショットを開いた。まだ客足の少ないモールの中を歩き、エスカレーターに乗って映画館まで行く。さすがに映画館の列はそこそこできていたが、オンラインで既にチケットは買っているので関係ない。券売機にチケットナンバーと電話番号を打ち込んで、チケットを手にした。
左腕の腕時計を見る。上映まで十数分。うん、ちょうどいい。
私はチケットをなくさないように鞄に入れて、トイレに行く。本日二度目の便をすっきりと済ませて、ぐっと伸びをした。
ところで、映画館で飲み物やらポップコーンを食べる派かそうでないかという議論があるが、私はもっぱら食べる派だ。ただしお金がある時に限る。
幼少期の頃におじさんに連れられて映画館を楽しむ頃から、映画というものはこれ高尚と気取って観るのではなく、適度にリラックスをして、適度に娯楽として楽しむ体をつくっておいて観るべきものだと言うのが持論だ。
というわけで、キャラメル味のポップコーンとコーラを勝って、チケットをスタッフに見せて、劇場内に入った。
チケット指定の席を見つけて座ると、深呼吸した。チケットに書かれている映画の題名を何度も読む。
夢ではない。
そう。小さな頃から大好きだったシリーズ作品の劇場版。シリーズは昔に終わっていたけれど、その続編の公開日が今日。おじさんに初めて映画に連れていってもらった時に見た映画もこのシリーズだったことを覚えている。
ここまで来て、わくわくして心臓の鼓動が高まってきて、ようやく本当に観れるのだという実感が湧く。
上映直前、スマホを開いてSNSに「今から観てきます」と投稿を入れて電源を落とし、鞄の奥にぐっと閉まった。眼鏡をハンカチで拭いて掛け直す。
その瞬間、ちょうどすうっと劇場内の明かりが消える。
私は椅子に座り直し、鼻息を立てて、どんな風でも精いっぱい楽しもう、とスクリーンに集中した。