ストロベリーマカロン
つ、疲れた……。
そこそこに混み合った電車が自宅の最寄駅に着き、車両を降りてやっと一息つく。久しぶりの雨で、心なしかいつもより電車に乗る人が多かったように感じる。水曜日、今日はノー残業デーなので3時間程度の残業で退社することが出来た。働き方改革、バンザイ……。
腕時計に目を落とすと、いつもは会議室で上司から笑顔で詰められているくらいの時間だった。そこから真っ赤なコメントで染まった資料を真っ赤な目で修正し終えるまでの戦いも、本日は一時休戦だ。
いつも通り、駅のそばにある喫茶店に足を運ぶ。比較的空いている夜の店内で少し休んでから帰るのが、毎週水曜日の習慣だった。
店内に入ると、コーヒーの香りが漂ってくる。この香りが好きだ。この店は、追加料金を払うとカフェインレスでメニューを提供してくれる。カフェインに弱い体質の自分にとってはありがたいサービスだ。
店員のシフトは曜日固定なのか、いつも同じ学生らしき男の子が接客してくれていたのだが、今日は初めて見る女性の店員だった。彼女も大学生くらいの年齢だろうか。エプロンの胸元の名札に「マカロン」と書いてある。前のバイトの彼は「オフサイド」だったが、なんでもいいんだな本当に……。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「ブレンドのレギュラーサイズ、ディカフェでお願いします」
店員の女性、マカロンさんは一瞬戸惑った様子だったが、「あぁディカフェ……」と呟き、注文の意図を汲んでくれたようだった。
「すみません……。働き始めたばかりで、慣れていなくって」
申し訳無さそうに彼女が言う。やはり、オフサイド君は辞めてしまったのだろうか。特に親しかったわけではないが、不思議と寂しいものだな……。
「いえ、気になさらないでください。元々水曜日に入ってた店員さんは辞めてしまったんでしょうか?オフサイド君は」
思わず余計な一言が出てしまった。マカロンさんは一瞬戸惑った後、今度は笑いながら答えてくれた。
「その人はしばらくお休みみたいです。資格試験の勉強が忙しいみたいで。辞めたわけじゃないらしいですよ」
そうなのか……。頑張れオフサイド君。もしまた会えたら、声をかけてみよう。
「うちの店にはよく来られるんですか?」
「そうですね、半年くらい前から週に一度は来てますかね」
半年前、最も深いといえる人間関係の一つが消えてしまってから、一人の時間の虚しさを紛らわせようと思ったのがここに通うきっかけだった。
「常連さんなんですね!行きつけのお店があるってなんかカッコいいですよね」
行きつけの店、か。
「確かに響きはちょっとカッコいいですね。僕が唯一カッコつけられるポイントかも。このお店のおかげです」
「そう言ってもらえるとありがたいです。あ、でも唯一なんてことないと思いますよ!って、お前に何が分かるんだって感じですけど…」
胸元に洋菓子名を冠した女の子は、困ったような申し訳無さそうな顔で笑う。初対面のはずなのに、なぜか気を許してしまいそうになる。そんな不思議な魅力を感じた。
「お気遣いありがとうございます。行きつけと言っても、半年間同じメニューばっかり頼んでるんですけどね。何かおすすめとかあったりします?例えば食べ物系とかで」
「おすすめ…ですか。うーん、ちょっと難しいですね…」
せっかくなら常連らしく裏メニューの一つでも覚えたいと思い聞いてみた後で、働きはじめたばかりの彼女に聞くことではなかったと反省した。案の定、彼女は少し困った表情を浮かべている。しかし、その返答は想定していたものとは異質なものだった。
「実はわたし、味がわからないんですよね…。食べ物も、飲み物も」
単に舌が肥えていない、というニュアンスではない。
「あ…そうなんですね。味覚に何か問題があったり…とか?」
「はい……丁度半年前くらいから味とか香りが感じられなくなって。良い香りが充満してるところにいれば良くなるんじゃないかーって最近思いついて、それでここでバイトを始めたんです」
半年前。俺がここに通い始めた時期と同じ。大切だったものを失った時期と、同じ。
「……半年前に何かあったんですか?もしかしたらすごく辛い、何かが」
勝手に彼女にシンパシーを感じて、反射的に聞いてしまった。初対面のバイト先の客に話すわけがないだろう。俺の身の上なんて、彼女が知るはずもない。
1分ぶり2度目の反省を脳内ではじめていると、少し躊躇って彼女は答えた。
「思いあたるきっかけは、あります。本当にそれが原因かはわからないけど……。お客さんは半年前からここに通ってらっしゃるんですよね?もしかして、何か辛いことがあったんですか?」
不躾な質問から何かを察したのだろう。もしくは俺がずっと辛そうな顔をしていたのかもしれない。
「おっしゃるとおり、です……。すみません、勝手にシンパシー感じて、変なこと聞いちゃって」
初対面の相手に踏み込みすぎた。反省の気持ちを言葉にして、冷静になろう。
「いえ、私が悪いんです……。飲食店で働いてるのに、味がわからないって変ですよね」
ああ、俺の余計な一言で傷つけてしまった。上司にキツめのフィードバックを喰らうより、よほど心にくる。仕事の外でまで何をやっているんだ俺は。
30秒ぶり3度目の反省をしていると、彼女は続けて言った。
「半年前、何があったのか聞いてもいいですか?どうしてここに通い始めたのか、とか。今日は他にお客さんもいないし。どうしても……過去を乗り越えるヒントが欲しくて」
彼女の方からそう聞いてくるのは意外だった。過去を語ることで、彼女にヒントを与えることはできるだろうか。俺はヒントを見つけることができるのだろうか。
「……はい。いいですよ。少し、長くなってしまうかもしれませんが」
店が閉まるまで、まだしばらく時間がある。今日はいつもより長居をすることになりそうだ。いつもより、消費するカロリーも多そうだ。
「その前に、追加で注文してもいいですか?」
そう言うと、彼女はふと我に返ったような表情をする。
「もちろんです!すみません。まだブレンドもお出しできていなくて」
「気にしないでください。今日はいつも以上にゆっくり過ごしたい気分なので。……それじゃあ、マカロンをひとついただけますか。いちご味の」
そういえば、味のわからない彼女はどうして名札にマカロンと書いたのだろう。
「かしこまりました!ご用意しますので、少々お待ちください」
そうして、彼女はドリンクと洋菓子の準備に入った。この後、何から話そうか。ぼんやりと天井を見ながら考える。
窓の外から、雨が降り続く音が聞こえる。この店を出るころには、止むのだろうか。
この雨が止むころには、俺か彼女は、一歩前に踏み出せているのだろうか。
そんなことを思っているうちに、声が聞こえてくる。
「お待たせしました。ブレンドと、ストロベリーマカロンです」
今日の相手は真っ赤なマカロンということになりそうだ。なぜだかこの夜が、この先の人生を大きく変えてくれそうな予感がしている。
ブレンドを一口味わい、俺はゆっくりと話し始めた。