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おまじない
眠れない。全くもって眠れない。こんなにも心身ともに疲れていると言うのに、私の体の仕組みはどうなっているのか。
かれこれ1時間近くベッドの中でじっとしているが目は冴える一方で、脳内の独り言がますます加速していく。眠れない自分の体へのクレームが一段落すると、昼間上司に言われた言葉がまた頭に浮かんできた。
「朝倉さんは真面目すぎるんだよ。賢いのは結構だけどさ、もっと肩の力抜いてくれなきゃこっちまで疲れちゃうよ」
お利口さんのリコさん、昔散々からかわれたあだ名まで思い出し、更にイライラしてくる。
仰向けからうつ伏せに体勢を変更し、枕を口元に押し当てる。
「お前がテキトー過ぎんだよ!!クソオヤジ!!」
音量を抑えるはずの枕を通り越し、自分の声が強烈に聴覚を刺激する。
声デカすぎんだろ、私……。もっと大事なところで発揮しろ。
自嘲気味に笑いながら、体を起こす。今の一撃で睡魔をノックアウトしてしまった。明日の予定でも確認しようかとベッドライトをつけ、その傍らにあるスマートフォンを開くと、翔から連絡が来ていた。最後にこの部屋で見送って以来連絡も取っていなかったから、コンタクトをとるのはおよそ1年ぶりだ。
朝倉凛湖さんへ https://……
メッセージには私の名前とURLが書かれていた。
1年と2ヶ月前、私達は都内のクラブで出会った。クラブなんて縁のない場所だったが、失恋直後の私を気晴らしにと友達が連れ出したのだ。行ったはいいものの楽しみ方が分からず、友達ともはぐれ、手持ち無沙汰でもう帰ろうかとしていたときに声をかけてきたのが彼だった。
「お姉さん暇そうだね、学生さん?」
「いえ、社会人です。すみません、もう帰るので」
その場を逃れるため、早足で歩き出そうとすると、落ちていた何かに躓いた。よろめいた私を力強い腕が受け止める。
「おっと。大胆だね」
「ち、違います!離して下さい!」
乱暴に手を振り解き、1歩下がって距離をとる。咄嗟のことに頭がついていかない。
「ごめん、悪気はなかったんだけど」
申し訳なさそうに謝る若い男を見て、少しだけ冷静さを取り戻す。そうだ、彼は転びそうな私を助けてくれたのだ。
「こちらこそすみません。慌ててしまって……もう帰りますので」
慣れないところには来るもんじゃない。さっさと退散しようとして、違和感に気づく。男の服が派手に濡れてしまっている。私が持っていたドリンクがかかってしまったためだ。
「ごめんなさい!クリーニング代払います!」
慌てて財布から現金を取り出そうとする私を制止して、男が言う。
「いいよ、そんなの。その代わり一杯だけ付き合ってよ。お姉さんも誰とも話さずに帰っちゃうなんて味気ないでしょ?」
確かに、味気ないと言えば味気ない。ただ、この騒がしい空間で落ち着いて話すなんて、自分には到底無理だと思った。
「わかりました。ただ、場所を変えませんか?騒がしくて頭痛くなってきちゃって」
男は驚いた表情を見せたが、その返答はスムーズだった。
「いいよ、近くにいい感じのバーがあるんだ。案内するよ」
私達は、近くのバーに場所を移して2人で飲むことになった。クラブから歩いて10分もかからないところに、そのバーはあった。
「えっ、リコさん年上なの?見た目若すぎ」
「そっちこそ、それで学生なの?遊び慣れすぎだから」
当時私は26歳、新卒で入社した会社の4年目、翔は22歳、卒業を控えた大学4年生だった。
「で、なんでアラサーの真面目OLさんがあんな慣れない場所来てたわけ?」
「くっ、アラサー言うな」
平気で不躾な質問をぶつけてくる。しかし、さほど嫌味な感じがしないのは何故だろう。
酒が入っていたこともあり、私はついさっき出会ったばかりの男に元恋人との失恋話を長々と語ってしまっていた。
「お前は自分に厳しいし人にも厳しい、気を回しすぎで疲れるって。気を使わなきゃ使わないで不機嫌になるくせに。こっちの方が100倍疲れるっつーの!!」
「もしかして、お酒弱い?」
「はいはい、私は失恋のショックで酒に溺れる弱い女ですよ〜」
我ながら面倒な酔っ払いだ。隣の青年は堪えきれないといった感じでクスクス笑っている。
「なんだ、面白い人じゃん。リコさんって」
「どこが。昔から真面目でつまらないお利口さんのリコさんだよ」
親からも教師からも友達からも、好きになった男からも、誰から見ても私はお利口さんだった。常にそうあるべきだと思っていたし、それが出来る程度には器用だった。
「それなら、自由で利己的なリコさんになりなよ。それかリコーダー奏者のリコさんか、トマト大好きリコピンさん」
よくもまあ瞬時に色々思いつくものだ。変なものばかりだけれど。
「あんまり卑屈にならない方がいいよ。なんでも捉え方しだいでしょ。初対面の男の前で酔っ払って元カレの愚痴を喋りまくってる姿は、全然利口に見えないし」
「……それは間違いないね」
相変わらず不躾な言い方だが、少し気持ちが軽くなった。性格は全然似ていないのに、話は通じる。今までにない感覚だった。
「今までの出会いで1番面白いかも。リコさんと会えたことが」
言われたことのない台詞に、脳の処理が追いつかない。顔が熱くなっていくのを感じる。
「私の話はもういいから!あなたのこと聞かせてよ」
「そうしたいのは山々だけど、明日早いんだ。金のない苦学生は終電で帰りますよ」
もうそんな時間か。これで終わりなのだろうか。この人にもう会えないかもしれないと自分が寂しさを感じていることに驚いた。
翔と目が合うと、彼は小さく微笑んだ。
「そんな顔しないで。次に会った時の楽しみがあった方がいいでしょ?また連絡するよ」
それから私達は頻繁に会うようになった。彼が音楽活動をしていて、大学を中退して音楽の道に進むと聞いたときは驚いた。はじめて右腕に彫られたタトゥーを見たときはすごく緊張して、なのに安心した。
「蝶々…」
左手の指で彼の腕をなぞりながら呟く。
「蝶のタトゥーには変化とか成長って意味があるんだ。これは自分の選んだ道で羽ばたいてやるっていう決意表明。蝶のデザインは女の子に人気で、男で入れてる人は少ないらしいんだけど、気に入っちゃったものは仕方ない」
そう割り切れるところがこの青年らしい。
「リコさんも入れてみたら?蝶々。おそろいにしようよ」
「えっ、おそろいは嬉しいけどタトゥーはちょっとハードルが……。仕事のこともあるし……」
狼狽える私を見て、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「冗談だよ。可愛いね」
年下のくせに……。
ふと、いつでも余裕を纏っているこの男は悩んだりしないのかと気になった。
「翔は不安になったりしないの?この先のこととか」
「んー」
しばらく考えた後、翔は答えた。
「不安はあるよ、もちろん。でも結局やってみなきゃわかんないじゃん。だから、まぁ最悪だめでもいっか!人生楽しんだもん勝ちだ!って言い聞かせて、やっちゃうことにしてるんだ」
不安がないわけじゃない。不安を受け入れて進んでいるのだ。
「私はそういうのから逃げてばっかりだ。やっぱりすごいね、翔は」
「結果を出すまではすごくなんかないよ。絶対すごいって言わせてやるから、その時まで待ってて」
私はかぶりを振る。
「十分すごいよ。私なんかに比べたら、ずっと」
こんな風に思ってしまう自分が情け無い。
不意に彼の手が私の髪を撫でた。
「リコさんはもっと自分に優しくしてあげなよ。俺はリコさんのいいところたくさん知ってるよ」
優しい声だった。翔の目を見ると、珍しく少し照れているようだった。愛しい、と思った。
「じゃあ教えて、ひとつずつ」
しばらくして、翔は東京を離れて関西で活動することを決めた。顔が広い知り合いの伝手で、より活動がしやすい環境を用意出来たとのことだった。同時期に私は希望していた部署への異動を打診され、現業務の引き継ぎや異動に備えた勉強など、仕事に割く時間と労力が増えていった。
結局しっかりとした別れの挨拶も出来ぬまま、翔は引っ越しを終え、私達が会うことは無くなった。唐突な出会いから、唐突な別れ。自分にしては珍しい、貴重な思い出として胸にしまっておこうと思った。
それからおよそ1年、新しい部署の仕事にもようやく慣れ、膨大なタスクを任されるようになり、そんな思い出を振り返る余裕も無くなっていたところにメッセージが来たものだから、その驚きと懐かしさはかなりのものだった。
朝倉凛湖さんへ https://……
URLのリンクを開くと、ライブの映像だった。翔の鳴らす歪んだギターの音から、曲が始まる。どうやら、私と過ごした2ヶ月間を曲にしたもののようだった。1年前、彼は恥ずかしがって私の前で歌ったことは無かったが、画面の中の彼の歌声には不思議と懐かしさを感じた。彼はこんな音を鳴らすのか。彼はこんな言葉を紡ぐのか。
曲の最後は、別れの言葉で終わっていた。
少し、泣いていた。
私達の2ヶ月間は確かに恋だったのだ。
彼はきっと恋をするために生きている。あの時は私に、今は自分の夢や他の誰かに。
私はきっと生きるために恋をしていた。こんなどうしようもない自分を誰かに認めてもらえなければ、生きていられなかった。でも、今は彼との思い出がある。彼のくれた言葉をひとつずつ思い出すたびに、少しずつ、こんな自分を許すことができる。この曲があればこの先も、それを忘れないでいられる。
その1曲を何度も繰り返し聴き、口ずさみ、自分の右腕を握りしめる。そんなことを繰り返しているうちに夜が明けていた。いつもなら身支度を整えている時間だ。今さらになって睡魔が襲ってくる。
「もっと自分に優しくしてあげなよ」
彼の声が聞こえた気がした。
スマートフォンを操作し、上司に体調不良のため休暇を取得する旨のメールを送る。そのまま電源を切り、ベッドに潜り込んだ。返信を待つ気はなかった。
「仮病がなんだ。たまには休ませろ」
口をついて出た独り言があまりに利己的で、笑ってしまう。
心に羽が生えたような気がした。
私は自由だ。