顔を合わせたなら。【ひねくれ育児日記】
まだ緑を探す流浪の民をやっている。
先日は、いくつか先の駅近くにある大学のキャンパス内に、テラスのあるカフェがあると聞いて行ってみた。一般の人も入れるエリアがあるという。
着いて、まずは並木道があったので歩いてみることに。行けるところまで行って、引き返す途中で息子はやはり寝てしまった。
まあいいや、とテラスのあるカフェへ。テラスが1席空いていて、席を取っておけばよかったのだが、油断してそのままカウンターへ注文に。店員さんが、テラスまでお持ちします、と。ありがたい。
戻ってみるとさっきの席には高校生らしい男子が座っていた。仕方がない、空くまで待とう、と立っていたら店員さんがやってきた。埋まっちゃったので待ってます、と言うと、椅子だけならお出しできますよ、と。それを傍らのテーブルで聞いていた、子どもを連れたお母さん二組が、私たちテーブル一つでいいですよ、とがたがた移動し始めてくださった。ありがたい、申し訳ない、と思っていると、店員さんが高校生の子に近づいて何か話し、彼は席を立っていった。
店員さんがどうぞ、と言ってくださり、お母さん二組に移動してもらわなくてもよくなった。彼はどうやらカフェで注文せずに席だけ使っていたらしい。
私も高校生のころ、マックでコーヒーだけ頼んでこっそりお弁当を食べたりしていたなあ。申し訳ない気分になる。ただ、この状況ではありがたい。
席に着くと、左隣はさっきのお母さんたち、右隣は60〜70代のマダム3人だった。会話が途中からふっと耳に入る。なんとなく、こんな小さい子を連れてお母さんが一人でねえ、という会話の最後の方のように聞こえた。
テレビドラマのように典型的なことを言う人が本当にいるんだなあ、と思いつつ、手帳を取り出していろいろ書きつけていると、またマダムたちの会話が耳に入ってきた。今度は私の左隣のお母さんたちのことだった。お母さんたちは2〜4歳くらいの子ども3人を、テラスのすぐ前の広場やその先の芝生で遊ばせ、彼らを見ながら話をしていた。「あんなところに登っちゃって。私ならあの下まで行って見てるわ」「あの小さい方の子が登ったら危ないわねえ」。またも、あまりに典型的。お母さんたちの耳に入ったら嫌だなと思いながら、何をすることもできずそのままでいた。
そうしていたら息子が起きた。もうラテは飲み終わっていたし、ベビーカーから出して、周りの景色を見せてみることに。私もぼーっと眺めていたら、「あらーこの子がじーっと見てるのよ」と右隣からの声。見ると、息子がマダムの一人をじっと眺めていた。慌てて「すみません」と言うと、「いいのよいいのよ、今何か月?」とか、急に明るい会話が始まった。
そのうちお母さんたちも子どもたちを連れ戻してきて、帰り支度を始めた。その一行とマダムたちもいつの間にか話を始めた。一人のお母さんがゴミを捨てに店内へ向かい、お母さんの姿が見えないとベビーカーで泣き出す子をマダムたちがあやしたり。気付けば私もなんとなくその輪に加わっていた。最終的に「ばいばーい」と大きく手を振り合って、一行は帰っていった。
そして私も、息子に代わってマダムたちに手を振りながら失礼した。
直接話していない相手への嫌味は言いやすく、膨らみやすい。でも直接話すと、それだけで非難する気持ちは薄らいで、応援するような気持ちが膨らむのかもしれない。直接話すって、前向きなエネルギーに満ちている。
そして、話のきっかけを作ったのは息子だった。子どもはやはりすごいパワーを持っている。
お風呂で椅子に座るようになった。もう抱っこじゃないのか、大人の階段登ったな、とちょっと寂しくなってしまった。