【希望はいつでも絶望のすぐ横に】
「感動と学びを世界中に」みやざき中央新聞がおおくりします
ー希望はいつでも絶望のすぐ横にあるー
2017年7月3日号1面に登場した盲目のカウンセラー・西亀真さん(当時60)が、市内の中学校での講演のため宮崎にやってきた。
西亀さんは30代半ばで目の難病を患い、46歳の時、完全に光を失った。
盲学校に入学し点字を学ぶが、指先に触れる凸点の感触がどうしても文字に思えず、「自分には点字は無理です」と匙(さじ)を投げた。その時、先生が言った言葉で西亀さんにスイッチが入った。
「両目が見えなくて、両手も失った方が唇で点字を学ばれたそうですよ」
今回西亀さんから、この「唇で点字を読む」藤野高明さんのことを詳しく聞いた。
藤野さんは昭和13年福岡県生まれ。人生の風景が一変したのは終戦の翌年、小学2年生の時だった。
近所に落ちていた銀色の筒のようなものを拾ってきて、当時5歳の弟と遊んでいた。
それは突然爆発した。不発弾だった。弟は即死。藤野さんは両目を失明し、両手首を失った。
それから13年間、彼は教育の機会を奪われた。全盲と両手首損傷の二重障がい児ということで、教育委員会は「就学免除」と通達してきた。しかし実際は「受入拒否」だった。
藤野さんは学校生活に支障がないように必死で身辺自立を訓練した。12歳になる頃には衣服の着脱、食事、洗面・トイレはもちろん、タオルを絞ったり、七輪の火を起こすこともできるようになった。それでも福岡盲学校は、その門戸を固く閉ざした。
藤野さんは12回にも及ぶ開眼手術を受け、その度に入退院を繰り返した。入院中、看護婦がよく本を読んでくれた。
18歳の時、運命を変える一冊の本と出合った。北条民雄の『いのちの初夜』。
それはハンセン病の診断を受け、療養施設に入所した著者が自らの体験を綴った短編小説だった。藤野さんは、自分よりもっと過酷な運命を背負いながらも世の中の不条理を本で訴えている人がいることを知った。そしてハンセン病の患者たちが唇で点字を読み取っていることに衝撃を受けた。
「文字を獲得すれば盲学校に行けるかもしれない」。気の遠くなるような受験勉強が始まった。かつて目の治療で同室に入院していた盲学校の生徒が毎日病室を訪ねて点字を教えてくれた。藤野さんは全神経を唇に集中させた。
難関は数学だった。なにせ小学2年生から教育を受けていない。特に分数や小数の計算が理解できなかった。
そこに看護学校の学生だった熊本敏子さんが現れた。実習を終えた夕方6時から熊本さんは付きっきりで数学を教えた。藤野さんは、倍数や簡単な方程式、因数分解まで理解できるようになった。
それでも福岡盲学校高等部は彼の両手首損傷を理由に受験を認めなかった。将来、理療(鍼・灸・マッサージ)の仕事に就ける可能性がないからだ。しかし、希望の光は絶望のすぐ横にあった。盲学校の教師が「大阪市立盲学校には音楽科があります」と教えてくれたのだ。
藤野さんは点字で手紙を書いた。点字の返事はすぐ来た。「できる限り最善を尽くします」と。
看護学校を卒業して正看護婦になっていた熊本さんとその友人たちが、藤野さんに受験科目の5教科を教えた。
1959年2月、大阪市は教師を藤野さんの病院に派遣し、前例のない出張入試を行った。合格通知は3月4日に届いた。20歳の藤野さんは晴れて中学部の2年生になった。
その後も何度となく訪れた絶望と屈辱の嵐を、家族や仲間に支えられながら潜り抜けた藤野さんは、1973年、教員採用試験に合格し、母校・大阪市立盲学校の教諭になった。不屈の精神と無限の可能性とは、この人のことを言うのだろう。
西亀さんの携帯には時々79歳の藤野先生からメールが来るそうだ。一体どうやってメールを打つのだろうか。
(みやざき中央新聞 2017年10月2日号 水谷もりひと 社説より)
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