「あの日」のことを心に刻んで~日本講演新聞
日本講演新聞は、「トキメキと学び世界中に」をモットーに、感動した、タメになった、元気が出た、という心が揺るがされた話だけを載せている新聞です。
読んだ方の人生がより豊かなものになりますように…と30年間創り続け、定期購読者は全国に1万人。のべ10万人と感動を共感し合っています。
noteでは特に人気が高く、本にもなっている社説をご紹介します。
松岡浩著『一隅を照らす』という小冊子に、大阪にある淨信寺(じょうしんじ)というお寺の副住職、西端春枝(にしばた・はるえ)さんの話が載っていた。
西端さんは大正11年生まれというから、今年で91歳だ。「にもかかわらず美しく、頭脳明晰で、しかも明るく楽しいお人柄」と松岡さんは言う。確かにインターネットで検索したら20歳は若く見える女性だった。
西端さんが商業界の最前線から退いて早40年になる。後に全国展開をする総合スーパー㈱ニチイの創業者・西端行雄氏と結婚したのは1946年、終戦の翌年だ。以来、二人は戦後の高度成長と共に商人道を歩んできた。
㈱ニチイの前身は、大阪の天神橋筋に出店した、わずか一坪半の衣料品店「ハトヤ」だった。戦前、小学校の教員だった夫は商売が下手で、悪戦苦闘の日々だった。
ある日の夕方、店先に思いもしない人が立っていた。春枝さんの実家のお母さんだった。突然の来訪に春枝さんは戸惑った。なにせ「店を出した」なんて言ってなかったからだ。さらにお母さんは、二人が一番恐れていたことを口にした。「今晩泊めてもらうわ」
社会全体がまだまだ貧しい時代だったとはいえ、二人の生活は困窮を極めていた。親にだけは見られたくないし、見せたくない生活だった。
日が暮れた頃、お母さんが言った。「春枝、ところでお便所はどこ?」
二人の家に水道も便所もなかった。いつも近くの天満駅の便所を借りていた。もう開き直るしかなかった。春枝さんはあっけらかんと、「お便所ないねん」と言い、咄嗟に近くにあったバケツを差し出し、「これでしてちょうだい」と言った。
一瞬たじろいだ表情をしたものの、さすが明治の女である。お母さんは「こりゃおもしろいね」と言って、音を立てて用を足した。
翌朝、お母さんは突然「用事があるので帰る」と言って、朝ご飯も食べずに若い二人の小さな居住地を後にした。二人は慌てて靴を履き、天満駅まで送った。
当時の天満駅のホームは長い階段を上っていったところにあった。階段の下で「それじゃ、無理せんと、西端さんも気をつけて…」「お母さんも気をつけて…」、ありふれた別れの言葉を交わした。
階段を上っていくお母さんの後ろ姿を見送っていた夫が、呻(うめ)くような声で言った。
「春枝、ようく母さんの背中を見ておくんだ。今母さんは滝のような涙を流しているに違いない」と。
お母さんは頬を伝わって流れる涙を、二人に気づかれないように、手でぬぐうことなく階段を上っていた。だから一度も振り返らなかった。その背中がすべてを物語っていた。
春枝さんは思った。「あの母の後ろ姿をバネにしよう」
誰にでも「あの日」があると思う。「あの日」があったから今の自分がある、と言えるような、忘れてはいけない「あの日」が。
それは、思い出すだけで心のバネになる「あの日」だったり、感謝で心がいっぱいになる「あの日」だったり。そんな「あの日」があるはずだ。
そう言えば、「おかん」というロックバンドの『人として』という楽曲は、今の幸せに繋がった「あの日」のことを歌っている。
…あの日あのとき、奇跡とも言える瞬間が無ければ笑い合うこと無かったよ…
あの日生まれなかったら
あの街に住んでなかったら
あの電車に乗ってなかったら
あの日が休みじゃなかったら
あの会社じゃなかったら
あの学校に行ってなかったら
あの日晴れてなかったら
……あの時別れてなかったら
あのとき、『好き』と言ってなかったら
痛み喜び感じずに僕はあなたを知らないままだった
悔しいこと、つらいこと、悲しいことも、いつかそれは「あの日」になる。
「あの日」をどう捉えて、どう生かすかは、すべて自分で決めることだ。
(日本講演新聞 2505号(2013/05/06)魂の編集長 水谷もりひと 社説)
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