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“多様性”という言葉の脆さ

「多様性が大事」「価値観はいろいろ」

最近このようなセンテンスがよく見られる。この「みんな違ってみんないい」という考え方は、これまでの歴史を考えるとごく最近主張され始めたものだろう。

例えば戦時中などは「総力戦」の名の下、宗教弾圧があったし国のために命を捧げることが最も尊い死に方だという考え方がいやでも植え付けられたのであって、それ以外の考え方を持てば精神障害者として精神病院に送り込まれたり、非国民として酷い扱い方をうけた。

このような歴史上の事実を知れば、誰でも「今はいい時代だ」と思ってしまう。現代日本は、個々人が自分が正しいと思う価値観・主義・主張を持ってして、その中での多数決でものごとを決めれば正当性が付与される民主主義を採用しているのだから。

私自身、多様性をはじめ多文化主義などの考え方そのものには賛成だ。自分が生きたいように生きていける社会が望ましいし、その実現のためにはその人の属性や価値観(特に生まれ持ったもの)を批判して修正してあげるのではなく、どちらかといえば承認してあげることが必要であろうと考えるためである。

ただ、私は言葉として表象されるところの”多様性”という言葉が嫌いだ。というのは、それが思考停止、当事者離脱の合言葉としてしか機能していないのではないかという不安が原因だ。

例をあげよう。友だちからこんな悩みごとの相談を受ける。

「自分はLGBTQのBなんだけど、どう思われるかな?」

または政治について議論をふっかけられる。

「自分は今の政治について〇〇であるべきだと思うんだけどどうかな?」

このような場合に、会話のどこかのタイミングで「まぁ。。。それはあなたの価値観なのでいいんじゃない?」という返答をする人がいるとしよう。

私の問題意識は、「この返事は果たして回答になっているのであろうか。そもそも返事と呼べる代物なのか」ということだ。

前者の相談については、悩みごとを抱える本人は他でもないあなたに自分の性癖を打ち明け、それを良くも悪くもレビューして欲しかったはずである。にも関わらず、「価値観は人ぞれぞれ」というマジックワードで無碍にされ、結果承認されたはずなのに何の満足も得られない。

後者も、議論に持ち込んでどこまで自分の意見が通じるか、もしくはあなたとの議論を通じてもっと自分の考えをブラッシュアップしたいという気持ちがあったはずである。それなのに、「多様性」という考え方の壁により、それ以上議論を進めることができないもどかしさを感じているはずである。

私もこのような場面には結構遭遇している。

1つ例を挙げると、ある日知人2人が教育について一触即発なくらい熱い議論をしていた。非常に興味深い議論で、間に入って聞いていたのであるが、最後の最後で「まぁ、結局は君の価値観だから」と一方が言ってしまった。

本人は疲れや議論それ自体に飽きたために、何気なくその言葉を発したのであろうが、その瞬間私はこれだけ議論して結論はそれなのかと妙に冷めてしまった。よほど、「教育ってやっぱり難しいよね」くらいの小並感満載のコメントの方がましだったように思えるくらいの冷め具合であったことをよく覚えている。

この冷めた違和感みたいなものは一体何なのだろうとここ最近ずっと考えてきたのだが、それはどうも“多様性”という言葉には、それまでの前提や議論を全て棚上げにして、全てを肯定して包み込む魔力があるということに原因があるらしいということに気が付いた。

“多様性”、“価値観”といった言葉は、その言葉を使った瞬間からその使った本人をコミュニケーションの当事者としての地位から離脱させてしまう危険性を持つ。そうなればコミュニケーションは強制終了である。ゲームでいうと本体の電源を抜くようなものだ。

「みんな違ってみんないい」というムードが現代においてあること自体は歓迎すべきことである。それが現代、個人主義、平和主義の象徴のようなものなのだから。しかし、それをあらゆる場面に濫用して平和ボケしていても、ものごとは解決へと向かわない。

至極どうでもいい議論、相談などであれば“多様性”という言葉は非常に便利であって、使っている人を見てもなんとも思わないが、ここまでくるともはやめんどくさい人を黙らせるための魔除けでしかない。ましてやTVの討論番組やアカデミックな議論の中で使うのはさすがにどうなのかと思わざるを得ない。