個人主義と恋愛
私は徹底的に個人主義者だという自覚がある。基本的に他人に興味がないし、自分のことは極力自分で全てやって他人に全く干渉されたくはない。
このような考え方は、生まれつき環境に恵まれ望むものは基本的に与えられて、不満なく学生時代を過ごした人間に特に多いように思う(もちろん他にもいるだろうが)。
個人主義者は、競争が激しい現代社会において「人は人、自分は自分」と割り切って、与えられた環境だけで特に不満なく生きていける非常に便利な生き物だ。
要は他人無依存な人種なのである、、、が将来そうも言っていられない問題が発生する。それは生物として子孫を残さねばならないという問題であろう。
我々がアメーバであれば本当に最高であったが、非常に残念なことにヒトという哺乳類は有性生殖で子孫を残す。
したがって生物としての大目標を達成するには“パートナー”が必要だ。もちろん双方が合意すればその瞬間からカップルの成立が客観的に認定できるが、通常はその間に「好意」という感情が挟まっていなければ合意は起こらない。
俗には「恋愛感情」などと呼んでいいものだろうが、私はこれが一体何を指すのがいまだに理解できないでいる。
理解できてないからといって、別にこれまで全く恋愛というものに無縁であったわけではない。恋愛ごっこみたいなものであればないわけではない。
しかし、その恋愛ごっこの真っ只中にいてもなお、「あぁ、これが恋愛と呼べるものか!」という発見に至った覚えはない。実際はむしろ逆で、何をすればいいのかちんぷんかんで、いつも“?”が頭の中にあった。
そうして付き合うという合意があってからしばらく時間が経ち、気持ちが冷め関係が友人程度と遜色がないと気がついたタイミングで、「これは恋愛ではない!」「この関係を続ける意味なくね?」と勝手に納得し、そもそも始まってすらなかったものに終止符を打つ。この繰り返しであったと思われる。まさにお互いにとって時間の無駄でしかない。
私はかつて当時付き合っていた彼女に対し、「恋愛というのは相手が変数だから予測ができず難しいんだ。相手が変数だったらいいのに」と言ったそうである。告げる相手選びがまともでないし、正しくもない、自分勝手でゴミのような考えだ。
恋愛は感情100%であり、感情というのには人間誰にも浮き沈みがある。だからその浮き沈みをなくして一定だったら、こちらが合うか合わないかの判断がしやすいという趣旨なのだろうが、当時の私はそもそも自分の感情にも浮き沈みがあることを自覚できてない。もし相手の感情一定が実現できたとしても、いつか自分に飽きがきて捨て去る未来しか見えない。自分が振られたくないという自己防衛満々で気持ちが悪い。
このように常に「恋愛とは何か?」ということについて考えては、自分を正当化するものを偽造して披露するということを繰り返していた。
ところで最近、中島義道『哲学の教科書』を読んでいると、こんな記述に出会った。
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愛をその構成要素に分解できるということは、その構成要素がなくなれば愛さなくなること、より優れた構成要素の持ち主が現れれば乗り換えることを含意します。とにかく計測可能で序列可能なものは愛の敵対物なのです。個々の属性ではなくその人だから愛するのです。だから、相手に全ての外面的なものがなくなっても、それでも「愛する」ところに愛情物語の真髄があるわけです。
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この記述は非常に核心をついていると思う。この記述に依拠すると、自分の“恋愛”と思っていたものは、とことん恋愛ごっこだったのかなぁなんて考えると虚しくなってくる。
しかし一方で、私はこう問いたい。
「本当にそのような恋愛というものがあり得るのか?」
この世の中で、例えば犯罪を犯してムショに入れられた夫を、出所するまで一途に待ち続けるという妻がどれだけいるだろうか?私であれば、自分のメンツにも関わる話なので早急に他人としてさようならしたいところであるが。結局愛情物語は”物語“でしかないということではないのか。
しかし、東京という空虚な街に出ればカップル(もどきも含め)が所狭しと仲睦まじそうに歩いている。なぜ他人にとっていとも簡単に見えることが、自分には不可能なのだろうか。
もしかしたらみんな自分を「この人が好きである」と騙して恋に落ちた”フリ“をしているのかもしれない。それなら私だってその気になればできる。しかし個人主義者な私がそんな無駄なことに自分の時間を使うだろうか。答えは否だ。
どう考えても「考えすぎ」であった。これまでどれだけの人にこう言われたか。しかし、どうしても考えずにはいられなかった。
こうして考えても意味不明な“恋愛”という現象を、近づかないように考えないようにして過ごして1年が経過した。特に可もなく不可もない1年だった。
しかし、最近進展があった。それは、あるとき恋愛について議論している際に出てきた、友人の考え方を聞いたときであった。
自分の解釈で噛み砕いているので、正確ではないかもしれないが彼の意見はこうである。
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恋愛というのは、「誰かを大切に思う」ということ。大切にしようと思えば、丁寧に扱おうと意識し、喜んで欲しいと思えるように意識して行動するようになる。例えば、歩調を合わせる、奥の席に先に通すなど。別に結果がどうなろうと関係なくて、たとえ本人が気付かなくても、自分がやられたら嬉しいだろうなということを率先してやるようにする。
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これを聞いた際、まず思ったのが「自分にはできないな」ということだった。自分さえ良ければ他人はどうでもいいと思ってきた私が、他人を思いやることなどできるはずがないからだ。
彼は続ける。
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こんなふうにしていたから、普段意識しなくてもできるようになっていったし、どんな人に対しても同じようにできるようになった。
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なんて徳の高いやつなのだろう。私なんか特に上京してから「思いやり」のようなものは、自分の辞書からほぼ削除されかけていたというのに。
しかし私はここで大きな気づきを得ていた。
「恋愛を通じて二人称への思いやりを取得すれば、三人称への思いやりへと繋げられる。そうすれば、結果として自分の価値を高めることになるのではないか?」
個人主義者は、自分のためにならないことはとことんやらない。これまでの恋愛ごっこのように結局その人を愛せずに別れる結果であるならば、単に時間の無駄であり自分のためにもならない。だからそれを繰り返すくらいなら始めるべきでないという結論でまとまっていた。
しかし、恋愛を通じて意識を改革できれば、自分のためになる可能性が開かれている。私の暗かった感性という名の部屋に薄明かりが差し込んだ瞬間だった。
正直な話、恋愛というものを自分の中で完全にessentialなものへとランクアップさせたわけではない。まだまだ懐疑的なものでしかない。
というのも、1つ目にある人を好きになる・愛するというのは本来目的なはずなのに、自分磨きの手段になってしまっているからだ。そうなると自分磨きの方法として代替案がいくらでも浮かび、恋愛は必須なものとして魅力的になりようがない。
そして2つ目に、二人称の思いやりが恋人である必要性がない。別にそれは家族であってもいいのだし、友人であってもいいわけだ。すでにいる存在をすっ飛ばして、二人称役として新たに恋人を捕まえる苦労はいらない気がする。
最後に3つ目。そもそもこれだけ生きてきて“恋愛”に対して定義を与えることができてない。某大学の男が「恋愛の定義を教えてくれ」と言って合コンなどで女からキモがられるというのはよくある笑い話だが、私にとってそれは全く笑い事ではない。定義というのは出発点だ。みんな定義を自分の中で与えられてないから笑ってごまかしてるだけではないかと思えてならない。
まだまだ欠点だらけであるが所詮は感情の話。少しは前向きに考えてみようという気分になっただけでも自分を大きく動かす原動力にはなりうる。
ただしかし、個人主義の蔓延する現代において、恋愛というものを人々はどう捉えて自分の中に落とし込んでいっているのか。謎は深まるばかりである。