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個人主義と恋愛Ⅱ
Noteに初めて投稿した『個人主義と恋愛』であるが、それなりの人にフィードバックをもらい嬉しい限りだ。
今回の投稿はこの『個人主義と恋愛』の続編ともいうべきものだ。
というのも、投稿当時はそれなりに内容に満足していたが、今となってはそこまで大したことを言ってないなという印象だからだ。結論がはっきりしておらず、読んでスッキリ「そういうことなのか!」と納得する代物ではなかった。
思うに前回はスタート地点からこけていたと思う。それは「恋愛がヒトにとって必要なもの」という暗黙の前提があったからだ。
ヒトは生きていくために食べなければならない。ヒトは健康に生きるために適度な睡眠をとらねばならない。これと並行する形で、「ヒトは〇〇のために恋愛しなければならない」と恋愛を何か人間の根源的な欲求に応える何かという風に捉えていた。その結果、〇〇の部分を明らかにしなければならないが、それがわからないという結論だったように思う。
今回はこの前提を変え、「恋愛とはそもそも必要のないものだ」として考えてみることにする。今回はこの前提により、かなりスッキリした議論になるのではないかと思う。
先日実家で私物の整理をしていて、菅野仁『友だち幻想』という本が見つかった。いつ買ったかわからないが、「大学は人脈作りが全てだ」とか「友達は10人いれば良い」とかいろいろ言われてよくわからなくなっているときに買ったものだと記憶している。
これを発見した時「何かヒントが得られるかもしれない」と思って、東京に持ち帰り久しぶりに読んでみた。そして恋愛に関して気になる記述に出会った。
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まるごと全て受け入れてくれてるわけではないけれど、自分のことをしっかり理解してくれようとする人と出会う。そういうレベルで、他人を求めていくことが必要である。
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これまで、「属性は愛の敵対物である」とか「その人であることを愛するのが真髄」とか言われて、混乱していた頭がすっと整理されていくような感じがした。
要は、“好き“という感情を理解したいという気持ちであると大胆にも言い換えてみるのだ。すると、これまで“愛”とか“恋”とかよくわからない概念が絡みついた何か崇高な気持ちだった“好き”という感情のランクが日常レベルに落ちて(悪い意味ではなく)、一気に普遍化してくるのだ。
もしこの理解で話を進めるのであれば、これまで首を傾げていた疑問にもそれなりに納得できる説明を与えることができる。
つまり、「昔好きだった人でも別れてしまえばその気持ちは偽物だったのか」という疑問に対しては、「“自分が理解しているその時のその人”を好きだったいう気持ちには嘘はない。ただ、人というのは移ろうものだから、時間が経つにつれその理解像から遠ざかってしまうこともありえ、常にどんな風になろうともその人が好きであり続けるということは難しいだろう」と言うことができるだろう。
また、「世の中にはどうしてこれほどのカップルがいるのか。彼らは自分を偽って相手を好きだと思い込ませているのではないか」というかなりひねくれた疑問には、「どれくらい相手を理解したいかは人それぞれであり、別に相手のことを完璧に理解しないといけないわけではない。自分と同じ基準で他人を考えてはいけない」と言えるだろう。
さて今回の前提である「恋愛は必要のないもの」を突き詰めて考えれば、恋愛とは趣味にかなり似たものになってくるように思う。
趣味というのは自分がやっていて「楽しい」とか「もっとうまくなりたい」とか思うものを、時間やお金などを投資して自分なりに極めていくものである。
恋愛もこれとパラレルに考えると、非常に当たり前の結論に至る。つまり、全て自分次第ということだ。やってもいいしやらなくてもいい。
ただ、恋愛することで何もしなければ味わうことのできない、喜びや苦しみを経験することができる。これを『友だち幻想』では<生のあじわい>と呼んでいたが、これを体験したいがために、時間やお金を投資するのである。全く趣味と同じである。
一応断っておくが、恋愛が趣味とだけ同じであると言いたいわけではない。わかりやすいだろうと思って趣味を挙げているだけで、他には宗教なんかと同じであると言っている人もいた。
恋愛がヒトとして生きるために必要であると考えると、どうしてもその必要性が理解できず、また恋人を他の家族や友人などとは根本的に違った“他者”と頑なに区別しようとするがあまり、議論が頓挫してしまっていた。
そこで恋愛が別に必須なものではなく、趣味のようなものであること。恋人とは自らの良き理解者であり、それは家族や友人などと何ら変わることはなく、認識の仕方として異なるだけで本質的には一緒であることと考えることで、非常にスッキリと理解できる。
なんら難しい話ではなかった。やっぱり考えすぎだった。これでしばらく答えのない疑問と格闘する日々とおさらばできそうである。。。