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わたしに描けるシナリオ


📺 アニメ〚AIの遺電子〛を観ている。

面白いよっ!

【 AIの遺電子 】

ヒューマノイドとヒトが混在する社会。
映画〚ガタカ〛〚A.I.〛〚わたしを離さないで〛のような。ヒューマノイドとヒトの【心のスキマ】や【システム差異によるスキマ】を題材にしている。

コミックスあるよ!



わたしの作品にもクローンネタがある。
キングコング西野さんからも、御墨付。たくさん映画を観たし、たくさん漫画を読んだけれども、被らない感性で良かった✾


小説なんて、高校生のときに友達と遊びで書いていたくらいだ。ヒマでもないヒマを持て余して書いた作品が、早々に大企業の目にとまったり、キングコング西野さんの目にとまった。

西野みーは役者だから。
演じるし、歌う。ステージが、幸せ。でも、自分の琴線を震わせる最もコアな自分自身の作品を。自分自身で表現する幸せも、持っていてもいいんじゃないかと、最近、思う。

読み方、アイなんだ


『きみはシナリオだ』『シナリオを書け』と、たくさんのプッシュをいただく。趣味の範囲を出なかった【シナリオ製作】に、やりがいを感じるくらいには、ピックアップもしていただいた。

『わたしは演者です』といいながらも、文章を書くことは、それほど苦手ではないものだから、【創作】をすることや、【哲学を言語化する】ということは、ある程度には、楽しみを見い出せる。


浦沢直樹さんとか手塚治虫さんとか好きな方はダイレクトにハマりそうです。(個人の感想です)。「彼方のアストラ」もクローンのお話。


役者の楽しみは、たくさんある。
どんな配役も、必要だから存在する。どんなセリフも、必要だから、そこにある。配役をいただけることは幸せだし、任せていただけることは、誇り。

わたしがいて、生きる役に、なったのだから。わたしという存在の肯定と同義。役者は、心とカラダを駆使して、表現するのですから。オーディションて、すごいんです。

そのなかでも
役者の個性や魂として
よりチャレンジしたい配役は存在する。


シナリオは、才能あるひとさまが脳内に描いた世界観を言語化したものだ。よりマッチングのよいストーリーもある。単純に、役者の人生や個性や趣味嗜好に依存する。

自分自身で言語化した作品を立体化させてゆくことの幸せは、いくつか、思いあたる。好きなニュアンス、表現、セリフまわし、言語は、必ず存在するからだ。好きな作家や翻訳家がいるのと、同じようにね。

『ガタカ』

“西野みー”なんて、小学生のころには「小公女」や「小公子」の雰囲気に憧れたし、中学生のころには「アガサ・クリスティ」や「レイ・ブラッドベリ」の雰囲気に恋い焦がれた。

高層セレブの優雅さや、品格の高さ、教養の豊かさに憧れたのだろう。言語も、美しいからね。


つまり、役者個人の習慣だったり
憧れ
である場合が、ほとんど。

心を奪われるだけの、なにかがある。
だから、シェイクスピアが好きな役者はシェイクスピアにばかり出演するのだろうね。役者としての、在りたい自分や、人間としての、在りたい自分が、そこにあるんだ。


A.I.


いただいた配役では、役者個人の好みの話なんて、そうは通らない。よほどレジェンドでないと(笑)

一文字、一文字が、世界観だからだ。その、たった、一文字すら、世界観のネジであるから。本来はね。

添削の気にする具合も作家によるし、芝居にしても、「一言一句、誤りなく、そのまま」を指定する方もいれば、「アドリブOK」を指定する方もいる。配役にもよるでしょう。


シナリオは、こだわりが光る
ものなのです。そこには、魂があって、生き様があって、想いがあって、そのシナリオ工程やキャラクターの心の流れのひとつひとつに、理由があるから。

生きているなかで
わたしたち人間が
【無】になる瞬間なんて、ないようにね。

「やばい。いま無だったわ」なんて小ネタが昭和だか平成だかに流行りましたが、ほんとうに思考停止して「無」になったとしたら、まあまあぶち抜いたマイノリティです。

本来は、それなりに理由があるもの。ブドウ糖が足りなくなったか、キャパオーバーで諦めたか、ちょっくら休憩したか。ところでみなさん、いまのところ、休憩はいらないでしょうね?

ブレードランナー


ここまでは、シナリオの価値を話しました。ここからは、いまいちど、演じ手の幸せを含めて、考えてみます。


配役いただいた役は、すべてが愛おしくて、自分自身のいちぶになってしまうもの。どんなプロフェッショナルな方も、俳優は、そう感じるものです。心とカラダを、使いますから、なおさらね。自分自身のカラダを通して、まるで疑似体験をして、感情の具現化を発するのですもの。


ホラーなんてスタニスラフスキーで演じたら
ガンになりそう


芝居は、疑似体験です。
わたしが習得したアクターズスタジオのスタニスラフスキー演技法は、より顕著に、その特徴を示します。教典には、こうあるのです。「演じるとは、100%その感情を以てして、その行動を行わないこと」


100%、その感情を以てして。
なのです。

つまり、疑似体験。

配役の人生をカラダと心にトレースして、シナリオになっている、そのシーンを、お客さまにお見せするのです。セリフも、仕草も、まるで、初めて経験したかのようにね。


教典だと、こう。
「役の感情の流れをシステマティックに構築し、板の上では、初めての経験のように生きる


エクスマキナ


スタニスラフスキー演者からすると、板の上の記憶は、ほぼ、ありません。「いまから1週間前の、この時間、きっかり前。何をしていたか、順を追って、感情表現も含めて、詳細に説明して」といわれても、99.99%のひとは、覚えていません。フランクリン手帳を駆使していたってね。おなじ感覚です。

それでも〚システマティックに構築〛はしていますから、またおなじシーンを“演じることはできる”し、配役の人生をトレースしているのだから、アドリブも容易です。


アイランド


その配役が、そこに生きていたら、“演じる”という概念はなく、事象に対し、個人として、なんらかの理由を以て、反応するわけですから。日常と、なんら、変わりない。

ただ、自分というアイデンティティを一旦、宝箱に仕舞って、配役というアイデンティティをお借りしているだけです。


ソラリス


だから、スタニスラフスキー演技法で〚恋愛の配役〛があったりすると、完全に、疑似恋愛です。どこまでも精密に精度を上げた、100%ではない、疑似恋愛。つまり、ほとんど、ほんものの恋愛です。(ホント)

えっちできるクオリティです。そこを、理性でコントロールするわけです。稽古期間が終わるまでは、日常も配役のアイデンティティで暮らす俳優もいます。西野みーも、そう教わりました。

ですから、現場が終わり、配役を自分のカラダから抜いてよくなっても、〚配役による恋愛相手〛への〚肌感〛が抜けきらないことも、あるということ。相手役が、タイプでなかったら、お仕事は地獄ですね(笑)しっかり、お仕事は選ばなくては、ストレスも配役に滲む?かも、しれません。

行間的にココに挿し込んでいいのか


配役のクセと、俳優のクセが、リンクしてしまって、自分自身のアイデンティティの正解がどこに置かれたものであったか、ど忘れしてしまうことも、あるみたいです。


シナリオを経験すれば、条件づけも外れます。哲学が養われるかもしれません。現場を経験する前よりも、現場を経験したあとのほうが、成長しているのだから、現場前の自分と現場後の自分は、ちがう自分である可能性は高いのです。

すると「この感覚は、何?」となるわけです。判断基準の置場を、配役から、自分自身の魂に戻し、再認識するための時間や、確認作業が必要になるということ。


ショーシャンクよりも、過酷


平たくいいます。「あら?わたしったら、相手役さんに恋しちゃったかしら?」。ハテナマークがたくさん浮かぶわけです。

スタニスラフスキー演者の女優と恋をするには、見事、相手役を射止め、彼女が望む最高の男性を演じきることをおすすめします(笑)もしも、彼女が夢から覚めなければ、現場後も、彼女はあなたの恋人でしょうね。

ただし、シナリオにもよります。
ハッピーラブコメなら、いいですね。笑


そんなこんなで。つまり


役者は 
ダイレクトに心を使っている


ウィルスミスお得意の


本題に戻ります。


つまり。

西野みーは特に、スタニスラフスキー演者ですから。シナリオを自分自身で描き、可視化するということは、そのシナリオの本質には、魂に触れる、〚哲学〛があるということです。〚思想の表現〛であるということ。

まっすぐに伝わるものもある。反面教師かもしれない。ニュアンスかもしれない。読者に依存させる部分を、わざと残しているかもしれない。読み手の人生の幅に、広くマッチングして、イメージしやすいようにね。


左脳で描く文章も、あるかもしれません。でも、西野みーはヒューマンドラマやファンタジーを扱います。

心を使って描き

心を使って可視化させ
心を使って演じ
心を使って歌っています。


だから、それなりには、体力を使います。


人間は脳PCなのに。
心臓がきゅうとするって不思議ですよね(笑)


いま、気になっている



西野みーも、自分が描いた作品の、ストーリーやキャラクターに愛着があります。作品に触れて泣いてくれた方に、励まされたりもしています。リピーターさんに、励まされたりも、しています。  


少なくとも、映画1000作と漫画1000冊と、アニメを山ほど観たなかで、つまり、“ヒット作品”“そこそこヒット作品”のラインナップに、わたしが描いた世界観は、存在しません。


クリエイターと経営経済学のコラボレーションも、非常に珍しい。経営哲学や経済哲学にも、心が関与します。生き様ですからね。


経営塾でお世話になった兄貴社長から尋ねられたことがあります。『世界中のだれもが、創りえない、稀有な才能を以てして書かれた、印税収入の作用する、天才的な名作の数々を、持っていたり・・・するの?(ほんと?)』。口コミで耳にしていただいていたようなのです。

未だに、支えになっています。

否定もなく、ただ、『そう聞いたけれど、そうなの?可処分時間を経営に使っていて平気?おれは、自分の価値観なんて自分で決めればいいとは思うけど、作家の知人もいる身として、才能があるなら、大切にしたほうがよさそうだね』という意味に、捉えました。


体育会系で生きてきた兄貴社長が、涙をみせながらサポートしてくださった時間を、西野みーは忘れてはいません。



西野みーは、演者だから、創れるシナリオが、あるかもしれません。西野みーは、シナリオを描けるから、表現できる芝居があるかもしれません。西野みーの人生だったから、歌える歌があって、西野みーだから、創れる楽曲が、あるかもしれません。


キングコング西野さんも
そう、仰います。




人生あと100年、あるでしょうか。
テロメアが解決したら、いいですね。笑


自分自身が
ほんとうに、やりたい、総てのことを

最高クオリティで
受容なく、できる、人生



好きなものだけに囲まれて
好きなひとにだけ囲まれて
好きなものばかりを生みだして
幸せにだけ、囲まれた世界を



シナリオという
疑似世界や疑似体験だけでなく


自分自身の人生が
幸せに
豊かであるように

 

生きていられたら、いいなぁ。

西野みー

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