空っぽになった墓
石原慎太郎氏が亡くなり、遺骨の一部を散骨したと報道があった。
私はこの報道を見て、石原慎太郎氏と同じ気持ちなのかもしれないと感じた。
私の実家と主人の実家の墓にまつわる話。
日本がどう変わっていったかの1ページ。
農家の末っ子
主人の祖父は幕末生まれ。
農家の末っ子として生まれた。
地域によって違いはあると思うが、
長男が家を継ぎ、墓を守っていく。
必然的に長男以外は別の墓を作る、嫁ぎ先の墓に入ることになる。
だが、祖父はそのことを不公平と感じていたそうだ。
祖父は大きな墓を作った。
子供達みんなが同じ墓に入れるようにと。
義父は6人兄弟の末っ子だ。
だが、義父は義祖父が作った墓に入ることができない。
墓はもうすでにいっぱいになってしまっている。
墓に入るのは子供達だけでなく、
結婚相手、そして孫たちも入ることになる。
自由を愛する義母
主人が学生の頃、墓守を主人にお願いできないかと親戚に頼まれたそうだ。
その依頼を断る。
義母は新しいもの、海外のものが好きな自由を愛する人だ。
私には信仰の自由があるのだからと言って。
墓じまい
もうすでに定員いっぱいの墓。
墓守をする人がいない墓は終わりになる。
自分が入る墓がないことに気づいて焦る。
伝統にはそれなりに合理性がある。
それを個人の想いを優先してしまったことにより、終わりが来てしまった。
破綻してしまっているものを私は子供達に押し付けることはできない。
農家の長男
「だから、田分けはダメなんだ。」
テレビを見ていた父は語気を強めにいう。
私には意外だった。
父は欲がないタイプの人間だと思っていたからだ。
どうしてそんなことをいうのか聞いてみた。
父は農家の長男だった。
父は小さい頃から家長になる教育をされていたようだ。
その中の一つが田分けはしない、というものだ。
もし妹たちが離婚したり、旦那さんが亡くなったりした時は受け入れてほしい。
それなりの規模の田んぼがあれば、人手は必要だ。
出戻りでも、食べていける。
弟たちが家を作った時、どう運営していけばいいのか教えてほしい。
墓に入ることのできない兄妹がいた場合、寺に頼んでほしい。
田んぼを分ければ家が弱くなる。
そしたら、家族を守れなくなる。
だから、田分けはダメだ。
父の兄妹は戦後の価値観に染まっていた。
しょうがない、時代が変わってしまっていた。
父は兄妹と折り合いが悪くなり家をでる。
父が亡くなった時、兄妹が再会することになる。
そうしてこう言われる。
「長男には墓に入ってもらわないと。」
と。
父は生前、実家の墓には入らないと言っていた。
私は独断で断っていた。
今となってはそれが正しかったのかわからない。
偶像崇拝の禁止
聖書では偶像崇拝は禁止されている。
子供の頃から不思議だった。
具体的なものがある方が愛着が湧く。
大事にしようと思うのではないかと。
墓に対する考え方の違いで、なぜ偶像崇拝がいけないのかわかった気がする。
プライドやコンプレックスを払拭するための道具になっている。
先祖、亡くなった人への感謝はなくなっている。
それなら、墓なんていらない。