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書道の帰り道

水曜日の夜、静かな街の通りは、雨上がりの湿気が漂い、淡い街灯の光がぼんやりと照らしていた。書道のお稽古を終えたばかりの私は、最後のバスが出てしまったことを知り、仕方なく歩いて帰ることにした。疲れた足を引きずりながら、薄暗い道を進む。

途中、小さな公園の前を通り過ぎようとした時、ふと目に留まったのは、一人の古びたベンチに腰掛けるおばあさんだった。白髪が風になびき、深いしわが刻まれた顔には、何かを思い出すような遠い目が宿っていた。

おばあさんが私に気づき、優しげな微笑みを浮かべて話しかけてきた。
「これから何処かに行かれるの?何かの帰り?」

驚いたが、無視するのも失礼だと思い、私は立ち止まって答えた。
「書道の帰り道で、夜遅いのでバスがなくなり歩いて帰るんです。」

おばあさんは、しばらく私を見つめた後、微笑みながら言った。
「前にもお声をおかけしたのを思い出したわ。」

その言葉に一瞬、戸惑いを覚えた。記憶をたどっても、おばあさんに話しかけられた記憶はない。「そうですか、私は覚えていません。すみません。」と答える。

おばあさんは、優しく首を振り、「いいのよ、覚えてなくても。」と言いながら、ポケットから何かを取り出した。
それは古びた、血にまみれた紙だった。書道の筆跡がその紙に残っており、奇妙な文字が書かれていた。
「これを、貴女に渡したかったの。」

不安が胸をよぎる。
「これは、一体何ですか?」

おばあさんの目が突然冷たく光り、声が低くなる。
「これは、貴女の未来よ。」

その瞬間、周囲の風景が変わり始めた。街灯の光が次第に暗くなり、公園の木々が不気味に揺れ始めた。背後でかすかな足音が聞こえ、振り返ると、何者かがこちらに向かってくるのが見えた。影はどんどん近づき、私は恐怖で立ち尽くしていた。

「逃げてはだめよ。運命からは逃れられない。」
おばあさんの声が背後から聞こえる。

振り返ると、そこにはもうおばあさんはいなかった。代わりに、血の匂いが漂う闇の中、無数の手が私に伸びてきた。その手は冷たく、ぬめりとした感触があった。私は恐怖に駆られ、無我夢中で走り出した。

しかし、道はどんどん迷路のようになり、出口が見つからない。周囲の影が笑い声を上げ、私を取り囲む。ついに、体力が尽きて倒れ込んだ時、ふと目を開けると、そこは再び公園のベンチの前だった。

おばあさんの声が耳元で囁く。
「これが、貴女の運命。何度逃げても、同じ結末を迎えるのよ。」

私は震えながら立ち上がり、急いで家に帰ろうとした。しかし、背後からおばあさんの声が消えず、耳をつんざくように響き続けた。
「逃げても無駄よ、運命は繰り返す。」

その夜、家に帰った私は、もう一度ポケットを探った。そこには、あのおばあさんが渡してきた血にまみれた紙が残っていた。恐る恐る開いてみると、そこには私の名前が書かれていた。そして、その下にはこう書かれていた。

「運命から逃れることはできない。再び、会いましょう。」

その言葉を見た瞬間、背筋に寒気が走り、部屋の中の空気が一変した。窓の外を見ると、ベンチに座るおばあさんの姿が、薄暗い街灯の下にぼんやりと浮かび上がっていた。

[おしまい]

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