①日本語とタイ語でダブルリミテッドになりかけた話 -小学校編-
つい先日、“ダブルリミテッド”という言葉を知りました。
これを読んで「あっ、昔の自分、これだった!」とピンときてしまったのです。
今現在の私は通訳や翻訳のお仕事がいただけるくらいには日本語もタイ語もスピーキング、読み書き共にできますが、どちらが得意かと聞かれたら答えは日本語です。日本語ネイティブと言って良いでしょう。
そんな私も今振り返ってみれば、小学校低学年くらいまではどっちつかずでした。
良い機会なので自分の日本語とタイ語能力の歴史について振り返ってみたいと思います。
この記事で私のnoteをお読みいただくのが初めての方もいらっしゃると思うので簡単に自己紹介します。私の生態を既にご存じの方はすっ飛ばしてください!
以上、簡単な自己紹介でした。本題に入ります。
~小学4年生時の語学能力
日本語でもタイ語でもコミュニケーションをとれるが、単語によってはそれが日本語なのか?タイ語なのか?の区別がつかない、時々イントネーションや語順がおかしいことがあるという状況。また、日本語、タイ語共に同世代の子供と比較し圧倒的に語彙力に乏しい。
例えば、
・日本語を話す時に語尾がタイ風に上がってしまう
・タイ語を話すときに主語動詞等の語順が日本語風になる(逆も然り)
・同世代の友人たちが普通に使っている単語で知らないものが多い
・単語のチョイスが幼稚 などなど…
どちらも微妙にできて、どちらも微妙にできない状態だった。
ターニングポイントは小学4年生だった
もともと小学校でも国語への苦手意識はあった当時の私。だがそれは他の教科に比べたら出来が悪い、という程度で特に深く考えることはなかった。
がしかし、小学校の授業で薄っすらと感じていた苦手意識は、小学4年生頃に中学受験対策で塾に通い始めたことにより偏差値や順位といった数字で可視化されることとなる。「国語ができない自分」と嫌でも向き合わなければならなくなった瞬間であった。
受験のために足を引っ張っている国語を強化する必要がでてきたのと、それまでタイと日本の行き来が多かったがその頃になると日本に定住するようになっていたこともあり、以降大学生になるまでタイ語は完全放置で「国語力を伸ばす」ことに全振りしていくこととなる。
小学4年生の私は日本で中学受験を受けるために塾に通い始めた
上記の通り、国語の出来が悪かった。
暗記さえすれば点数を取れる教科は何とかなった。人並み、いや教科によっては平均以上にできた。算数の設問で読解力がないと難しいものも多かったが、ある程度はパターン化できていた気がする。
一つ気が付いたことがあった。
それまで漠然と「国語ができない」と思っていたがそうではなかった。
出来ないのは長文読解と記述問題だった。
私が通っていた小学校は、進学校でも何でもない田舎の片隅にある公立の小学校。学校の授業だけではどんな風に国語が出来ないのかを知るには少々無理があった。
国語の点数が悪かった原因は、長文を読むのに時間がかかり時間切れで解けなかった、ケアレスミスを頻繁にしてしまったからではなかった。
時間をかけて何度も同じ文章の同じ段落を読んだところで、内容が頭に入ってこないのだ。筆者が何を言いたいのかが分からない。解説を読んでも納得できないしそもそも解説文自体もよく理解できない。
できない自分に困惑し嫌気がさした
自分の置かれている状況が分からなかった。
どうしてこんなにも読解問題が解けないのか、何をどうすれば解けるようになるのか、解決の糸口がさっぱり見えなかった。他の教科は記憶すればどうにかなったが国語だけは本当に対策のしようがなく、選択式の設問であれば神頼みであった。
解説を読んでもその解説文が理解できないなんて、自分はとんでもなく出来が悪いと自己嫌悪に陥る。先生から直接解説を受ける時は、分からないと言うのが恥ずかしくて分かったふりばかりしてしまう。
周りに相談できる大人はいなかった。そもそも自分が困っていることについて的確に相談できるほどの状況自覚も説明能力も持ち合わせていなかった。私が陥っていた状況に気が付いて手を差し伸べてくれる大人もいなかった。
選択式試験の罠で、時折まぐれで高得点をたたき出す。集中力の問題なのかもしれないと錯覚させられる。いくら読んでも一向に内容を理解できない自分に嫌気がさして、出来ない根本的な原因は分からないのに気合い入れてやればできると自分を洗脳鼓舞し始めた。
対人コミュニケーションは普通に取れていた
日本語を学習する外国人にとって高難易度であろう「てにをは」の使い方が自然だったせいか、傍から見れば私はただの一国語が苦手な日本の小学生であったのかもしれない。
あの時、私の語学発達状況について理解し導いてくれる誰かに出会えていたとしたら、以降の私の人生は変わっていたのだろうか。
差別といじめや異国での孤独な子育てで余裕のないヒステリックな鬱寸前母、単身赴任で子供の教育に思い入れがなかった父のどちらも、私が抱えていた問題に気がついてくれることはなかった。普通に会話が成立しているから、「ちょっと国語が苦手なタイプなだけ」と思われたのだろう。
タイ語を使う機会
幼少期はタイと日本を行き来することが多かったが、この頃になると私が受験準備のため塾に通い始めたのもありほぼ日本で過ごすようになっていたのと、母のカタコト日本語も上達してきたのもあって、タイ語に触れる機会はめっきり減る。
家でタイ語を話す機会があると言っても家庭内で使う日常会話レベルに限られ、同世代のタイの子供達のタイ語レベルとどんどん乖離していく。
当時はスマホやYouTubeなんていう便利なツールはまだ世に存在していなかったので、日本在住であった私はタイ語をインプットする機会を持ち得なかった。
アウトプットする機会もかなり限られ、家での母との会話か、今や過去のものとなっているであろう国際電話カードという代物を使用し、通話時間を気にしながら時折タイの実家に電話をかけては駆け足で親戚達と話をする時くらいしかタイ語の出番がなかった。
私のタイ語の発達はこの時点でストップ、いやむしろ使う機会は減る一方であったので、以降大学生の時に挽回するまでひたすらにマイナス成長していく。
そんなこんなで迎えた中学受験本番
やればできると騙しだまし自身を鼓舞しながら塾に通い続け、ついに迎えた中学受験。
この中学受験で人生レベルでトラウマとなる大大挫折を味わうこととなる。
つづくよ~。
つづき→②日本語とタイ語でダブルリミテッドになりかけた話 -中学高校編-
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