正義の盾
この世で最も凶悪な武器とはなんだろうか。物理的なものでいえば銃や包丁だが、僕の聞きたいことがそんなものではないのはタイトルから察せるだろう。人を内部から刺すことができる言葉、多くのものを意のままに操れるお金、なんていうのも凶悪な武器になろう。だが最も完全無欠な武器とは「正義」なのだと僕は思う。
あなたはこんな状況に陥ったことはないだろうか。Aは何か悪いことをしてしまい、Bから責められている。Aは自らの非を認め謝っているが、Bの怒りは一向に収まる気配がない。Aは自身に非があることを認識している以上平謝りをすることしかできず、Bの言葉を浴びせられ続けるサンドバッグのような状態になってしまう。
この状態を僕は「正義の盾」と呼んでいる。自分が正しいと確信しているBは、Aが反撃できないことをいいことに自分のストレスの全てをAにぶつける。Aにしか非がない以上誰もBを責めることはできないし、そもそもBは悪くない。悪いことをしたAに「制裁」を加えているだけなのだから。
だが本当にそうだろうか。公的に制裁を加える場、裁判に例えて少し考えていこうと思う。この場合、先に窃盗、襲撃かなにかをしたAに対して、BはAが反撃の気力を完全に失っているにも関わらず攻撃を浴びせ続けていることになる。この場合正当防衛は成立せずに判決は「過剰防衛」となり、公的に罰せられる。
どんなに共感できる状況であろうが、自分に加えられた危害以上の反撃を相手に加えるのは社会的に「正しい」とは認められないし、認められるべきではないのだ。必要以上の制裁というのはただのいじめでしかなく、自分を貶める行為に他ならない。
ではなぜこのようないじめ行為をしてしまうのか?それはやはり自分が「正義の味方」であるからだろう。こういうことをする場合、本人は使命感に駆られ「正義を執行している」という認識である場合が多い。頭を使命感と正義感で支配されているからこそ状況の異常性に気づけないのである。
通常の暴力と違い相手が目に見えて傷つくわけでもなく、正当な理由のある抽象的な暴力であるからこそ、「正義」というのは凶悪な武器と成り得るのだ。あなたも誰かに強い言葉を向ける場合、それが本当の意味で必要なのか、今一度考えてほしい。